第34回 仏檀と位牌(その一)
民俗学者・酒井卯作
(題字・イラストも)
台湾の国道の南北を車で走ってみて下さい。印象に残る光景がいくつかあります。
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まず果物のマンゴの並木の枝に下った袋。それは猫の死骸。道路の曲り角などの要所々々に「南無阿弥陀仏」と書いた大きな立看板。台湾の人たちは、あれは仏教の宣伝だとみてあまり気にしていませんが、日本人がこれをみると、自分は交通事故で死ぬんじゃないかと考えて、思わずドキンとします。
南無阿弥陀仏という言葉は、仏教者にとっては尊い言葉ですが、私ども俗人には不吉な感じを与えます。つまり一つの言葉の中に、聖と穢れの二つのまったく違った感情を抱かせる。これが南無阿弥陀仏です。
なぜこんな面倒なことになったのか。二回にわたって考えてみます。
日本では仏教を信仰する家では仏檀があります。これはその名の示すとおり仏様を祀ります。仏は釈迦三尊のこと。その仏様を「南無」といって拝むのです。
南無というのはご存知のとおり、尊いということの敬称です。かつて私たちが「かしこくも」といえば、後はいわずと知れた天皇を意味することと同じように。
さて、この神聖であるはずの仏檀に、私たちは死者の位牌をおいています。位牌は死者の魂を祀る物。人は死んで腐敗し、やがて白骨となる。下手をすると化けて出てきます。こんな穢れたものを、なぜ神聖な仏檀に祀るのか、それを考えてみようというわけです。
仏檀は仏教の伝來と共にあったもの。だとすれば六世紀頃から日本にあったと考えられます。ちなみに中国の「三国史」の中の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は、四世紀頃の日本の風俗を述べた内容です。ここでは家の中に神や仏を祀ることはでてきません。やはり仏檀は仏教伝來を待たなければいけません。
そこで仏檀の成立を確かめてみると、「日本書紀」の天武天皇(685没)14年3月27日の詔書があります。それには「諸国に命じて家ごとに仏舎を作り、仏像を置いて経を唱え、以て礼拝供養せよ」(原漢文)とあって、仏檀の設置が天皇の命令で行われた様子がわかります。
この時代は天平文化と呼ばれて、貴族と僧侶を中心とした仏教の文化の最盛期でした。「七堂伽藍八重櫻」と呼ばれたように、奈良では立派な寺院が建ち、有名な仏像もたくさん作られました。
このままいけば、日本はすばらしい仏教国となったはずですが、そうはいきません。仏教が死と関わりをもつようになってくると、問題は複雑になってくるのです。
平安朝の中期、清少納言の「枕草子」などを読むと、当時の様子がわかります。当時も仏教の盛んな時代でしたが、どうも家の中に仏檀が設けられた様子はありません。死者の命日などには自らお寺に行って供養をしていたらしく、自分たちの住む屋の内には仏檀はなく、別棟に穢れの一区画を設けて恐れられていた。つまり、これが仏檀です。くわしく見てみましょう。
それは黒戸(くろと)、と呼ばれるところ。枕草子の一節にはこうあります。
「清涼殿の丑寅のすみの北にへだてなる御障子は荒海の絵。生きたる物どものおそろしげなるを、手長足長などを書きたる」(二三)絵がありました。まるでお化けの絵です。
清涼殿は天皇の御座所。その丑寅の方向の建物の一角に黒戸があったわけです。丑寅の方向は鬼門で、吉事にはけっして使わない方角です。平安末期の「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には「丑寅みさきは恐ろしさ」と述べているように、丑寅、つまり北東の方角は縁起が悪いのです。
黒戸が丑寅の方角に設けられたのは、黒戸は死人があったとき、一時そこにおいたということらしく、別名ここを霊殿(たまどの)とも呼んでいます。枕草子にはさらに「黒戸の前などわたるにも、声などするおりは袖をふたぎて見おこせず」(八二)といって、袖で口を隠して通りすぎています。
黒戸を、私の考える仏檀に相当するものだとすれば、そこはふだんにお参りするところではなく、反対に不吉な場所として忌み嫌われていたと考えることがこれでわかります。それは現代社会でも同じです。
現在は仏檀をどこに設けるかといえば、だいたい家のいちばん大切な場所です。長崎県西海町の私の生家では、座敷の床の間を半分に区切って、その半分に仏檀を作っています。
しかし日本各地には、少なくとも戦前までは仏檀を設けるのは納戸(なんど)が多かったようです。例えば茨城県多賀郡高岡村(現高萩市)では日常の生活する部屋か、納戸にはめこんであるといい(常陸高岡民俗誌)、福井県三方郡美浜町でも小納戸や寝床に仏檀があるといいます。(民間伝承13-5)
納戸はご承知のとおり、座敷と反対の暗い小部屋で、物置きか夫婦の寝所です。長崎県などでは、「納戸べえが出る」といって、ここはお化けの出る怖いところでした。まさしく枕草子のいう黒戸です。
仏壇が神聖なものとすれば、そんなに暗いところに押しこめてしまうのは不見識だということになりますが、しかし、もともと仏檀というのはそんな暗い性質のもので、あまり悦ばれない存在だったようです。
それでも家の中のどこかに祀ってあれば良い方で、一つの仏檀を共同で祀るところもあります。例えば、鹿児島県肝属郡百引村(きもつきぐんもびきむら)(現鹿屋市)では一族で仏檀を持っており、その世話は当番があたり、毎月十一日に当番の家に集って飲食をするといいます(山村手帖)。また同県の川辺町では、四ヵ月ごとに当番の家を替えて法会を行ったと下野敏見氏は報告しています(川辺町の民具)。ここの仏檀は経箱に入った小さいものです。それをタライ廻しにして拝むわけで、各家には座敷はおろか、納戸にも仏檀はありませんでした。
仏檀の扱いは、日本人の宗教生活の中ではどこか暗さが漂い続けています。徳川時代に檀家制が確立しても、なおその暗さを払い除けることができなかったのも、仏檀と共にある位牌の存在があったのかもしれません。次回はその位牌について考えてみます。
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酒井 卯作(さかい・うさく)1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。
本会理事。民俗学者。
著書
南島旅行見聞記 柳田 国男【著】 酒井 卯作【編】 森話社 2009年11月
琉球列島における死霊祭祀の構造 酒井 卯作 第一書房 1987年10月
稲の祭と田の神さま 酒井卯作 戎光祥出版 2004年2月
など多数。


