第15回 悲しい墓
民俗学者・酒井卯作
(題字も)
そりゃだれだって、せめてあの世に行ったときぐらい、酒を飲んで、おいしいものを食べて暮したい。そう思うのは私だけでしょうか。写真をごらん下さい。墓石の下方に徳利と杯の絵があります。これは群馬県新田郡新田町木崎にある墓石で、表に刻まれた戒名がまた艶やかです。「空 梅室春芳禅定尼」の文字からすれば、梅の香の匂う春のうららかな日に、うまい酒を飲んで遊びましょう、というような感じをうけます。
群馬県木崎の徳利と杯のある墓 (清水昇氏撮影) |
上の写真の木“徳利の絵”の拡大 |
ところが実際はまったく逆で、これは売られてきた悲しい女の墓なのです。この木崎は、かつての中山道の宿場町。宿場は旅人の行き通うところ。人が多ければ旅籠ができ、そして岡場所もできる。当然そこには売られてくる女たちがいる。木崎はこの定石どおりの町でした。ちなみに、町の片隅に設けられた寄せ墓には、売られたと思われる女たちの墓がいくつもあります。例えば「越後国蒲原郡新浜村品田半兵衛娘すき」とあるのは、新潟県の半兵衛の娘のすきさんが、ここに売られてきて死んだことを示すもので、年齢は23歳とあります。これはその一例で、はじめに述べた徳利の絵のある墓石もその中にあります。
越後というところは昔から身売りの女の多いところ。年貢の重さや飢饉年になると、貧しい農家は娘を売った。その売られた女が、いわゆる飯盛女です。江戸の吉原や京都の島原などの遊廓と違って、岡場所は役人の目の届きにくい闇の世界です。旅人の飯を盛るという名目で、じっさいは客をとらせられて身を削る。田舎育ちの頑丈な娘も、5、6年もたてば痩せ衰えて、やがて命を落としてしまうといいます。
江戸では昔から「生きては苦界・死んでは淨閑寺」といわれていたように、苦界で死ねば、コモに包まれて寺の境内に捨てられて終わる例もありました。何の罪もなく売られて、そして冷たく捨てられて終るあわれな人生です。東京は新宿2丁目の成覚寺の境内には、その頃捨てられたらしい女たちの共同の墓碑が今でもあります。新宿も、もとは甲州街道の宿場町でした。
木崎では、せめてもの供養の墓を建てたのは、土地柄の親切心だったと思われますが、それにしても、酒と男たちの欲望にさいなまされて死んだ彼女たちのために、わざわざ徳利や杯の絵を添えた意味は何だったのだろう。私には少し残酷のような気がします。 しかし考えてみると、近年話題になる身寄りのない老人の孤独だって、その哀れさは変わりません。いいえ、死というものは、あらゆる人間にとっても残酷なのです。
再生 第79号(2010.12)
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酒井 卯作(さかい・うさく)1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。
本会理事。民俗学者。
著書
南島旅行見聞記 柳田 国男【著】 酒井 卯作【編】 森話社 2009年11月
琉球列島における死霊祭祀の構造 酒井 卯作 第一書房 1987年10月
稲の祭と田の神さま 酒井卯作 戎光祥出版 2004年2月
など多数。