第28回 日本人の墓
民俗学者・酒井卯作
(題字・イラストも)
見出しに添えた写真を見て下さい。これは墓です。鹿児島県奄美群島の徳之島にある古い墓で、今なお拝まれています。中央の大きな石が先祖、家族の誰かが亡くなると、そのたびに小石を一個ずつ傍におきます。まさしく「国産」の墓です。
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少し変わった墓だなぁ、なんてお考えの方もおられると思いますが、逆にいえば本土で見られる石塔の方が、おかしいのです。このおかしい四角な石塔が、日本中(沖縄地方を除いて)にまんべんなく分布しています。
日本は広いし、地方色も豊かです。言葉も違います。食物も気候も違います。お化けだって違います。なのに、石塔だけが全国一様に同じだというのは異常だと思いませんか。
人間というものは、百人集まれば考え方は百違います。すべての人が意見が完全に一致するというのは不自然です。墓だってそうです。
そこで、まず日本中の墓の形が、なぜ同一なのかを簡単に考えてみましょう。その原因にはおよそ二つの理由があります。その一つは仏教の影響、二つ目は政治の圧力です。
まず仏教の影響から考えてみます。今、私たちがいう石塔という名称は古いものではありません。もとは卒塔婆(そとば)と呼びました。もちろん仏教用語で、卒都婆とも書きます。
卒塔婆というのは、ホラ、石塔の後ろに、経文を書いて立ててあるあの板です。私たちが、通常石塔というのは、じつは「石造りの卒塔婆」を省略して石塔と呼んでいるわけで、石塔も、じつは卒塔婆なのです。
ではなぜに、石塔も板も、両方とも塔婆なのか、その由来を説明してみます。はっきりしているのは、平安朝の藤原道長を描いた「栄花物語(えいがものがたり)」(巻第十五)の中の次の一節です。道長が自分たち一族の墓のある木幡に行ってみると、草がぼうぼうで荒れ果てていた。そこで道長はこういっています。
「この山には、ただ標(しるし)ばかりの石の卒都婆一本のみ立てれば、又参り寄る人もなし」。
この道長の言葉には、次の二つの大事なことが述べられています。一つは木製の卒塔婆が石になったこと、この卒塔婆を立てたら、もうお参りの必要はない。ということの二点です。
石の卒塔婆ができたのが、およそこの頃。板の卒塔婆はやがて腐るけれども、石なら半永久に保存できるという利点があるというのが道長の発想でした。
それに卒塔婆というものは、お参りするための標識ではなく、火葬地や埋葬地に立てて、僧侶がそこで魔除けの呪文などを唱え、それで死者の扱いは完了する。そういう性質のものでした。これについては、すでに神戸女子大学の田中久夫氏が「卒塔婆建立の意義」と題して論文を発表しておられるので参考になります。
さらに卒塔婆である石塔を、いつまでも拝み続けるものではないということを教えるものに、鎌倉時代の頃の吉田兼好の「徒然草(つれづれぐさ)」の一節もありますので紹介してみます。
「けふとき山の中におさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、ほどなく卒塔婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞこととふよすがなりける」(第三十段)。
苔むした卒塔婆というのは、当然石のはずです。山の中に埋葬して、石塔を建てたら、もうその後はお月さんと夜の風だけがお詣りに来るということで、墓というものは、そんなに頻繁に拝みに行くところではなかったということが、ここでも述べられています。
古い記録なんてアテにならない、と疑う人もいるかもしれませんので、私どもの仲間の調べた記録があります。一つだけ例をあげておきます。
新潟県西蒲原郡間瀬村(現 新潟市)では、この村の高座と新村との間の松林の中に埋葬地があって、そこは誰でも自由に死人を埋めることができた。埋めた後には石を積み、木をさしておくていど。あとは恐れて近寄らなかった。三、四年もたつと、その場所はもうわからなくなる(海村生活の研究264頁)。
つまり、墓というところは、埋めたが最後、行くところではなかったのです。墓が身近なものとして登場するのは江戸時代、キリシタン禁制によって、これを効果的にするために、幕府はお寺を利用します。いわゆる檀家制です。庶民たちはすべてが、どこかのお寺に帰属しなければなりません。
さらに幕府は「御触書(おふれしょ)」を出して、墓石の寸法まで細かく指示します。
こうして、とくに江戸中期以降は日本中の墓が画一的な形で統一されます。そこに見られるものは、幕府の宗教政策の一つとして墓が統一されたということです。
さらに明治維新になると、政府はこのお寺の管理する葬儀や墓を、神道形式にしようと画策します。いわゆる神葬祭の確立です。これはあまり成功しませんでしたが、しかし今でも各地に神道形式の葬祭が行われています。
この神葬祭確立の真意は、墓と先祖崇拝を結びつける意図があったのです。 ちなみに明治七年に維新政府が出した葬祭についての「上等葬祭図式」という和本には、その結びに「毎年春秋二季、先祖代々ヲ合セテ霊祭ヲ行フベシ(中略)右霊祭スル毎ニ、必ず墓所へ参詣スベシ」とあります。
墓参というものが、国民の義務として強制されたことがこれでわかります。つまり江戸時代には宗教弾圧の一環として墓参が強要され、明治には先祖崇拝、その先にある天皇制の確立という政策によって墓参が要求されたということがわかります。
かつて墓に向っては指をさすと指が腐るとまでいわれて忌み嫌われていた場所が、今は墓参を美徳とするように変化したという原因が、この付近にあると私は考えます。
日本各地に見るあの石塔の墓は、日本人の庶民たちが作りあげた土着の信仰によって生まれたものではなく、政治の政策の一環として生まれたということを念頭にいれて、これからの私の話をすすめて行きます。
再生110号 2018年6月
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酒井 卯作(さかい・うさく)1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。
本会理事。民俗学者。
著書
南島旅行見聞記 柳田 国男【著】 酒井 卯作【編】 森話社 2009年11月
琉球列島における死霊祭祀の構造 酒井 卯作 第一書房 1987年10月
稲の祭と田の神さま 酒井卯作 戎光祥出版 2004年2月
など多数。


