第30回 袖の別れ
民俗学者・酒井卯作
(題字・イラストも)
日本人の着物、とくに女性の着物姿は、江戸の封建社会に鍛えられた美しさと、引き締まった端正さがあって、私は世界でいちばんすばらしい姿だと思います。
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その着物の袖。この袖がなければ着物はなりたちません。しかも片方だけでなく、左右の二の袖が必ず必要です。袖をたんなる布の一片だと考えては、あまりにもったいない。例えば夏芝居で有名な「夏祭浪波鑑(なつまつりなにわのかがみ)」を見ましょう。袖のもつ意味がわかります。
二人の男が喧嘩をして、いざ仲直りという段に、お互いの浴衣の片袖をちぎり取って交換し、義兄弟の契りを結ぶという場面があります。これは袖が人間の魂の象徴だということを教えてくれる場面です。
これを特別な考えだなんていわないで下さい。案外広く、袖に関する特殊な扱いがあったということがわかります。それは、沖縄の結婚式に「袖のチャーシ」ということをしたことでわかります。新郎新婦が一枚のうちかけを二人で羽織って、お互いが片方ずつ手を通して夫婦固めの盃をするのです。これで二人の人間の魂が一つに結ばれたということになります。
もちろん、二人がいつまでも心が一つというわけにはいかないときがあります。鹿児島県の沖永良部島では
むもいや片袖に、ぬちゃぬ二人やしが
なまやちりぢりに、なたぬらみしゃ
(もとは片袖に新しい二人だったのに、今は離ればなれになったのが悔やまれる)
という歌があります。せっかくの片袖の夫婦固めの式も、往々にして破局が訪れることもあります。「万葉集」(三一八二)に「白栲(しろたえ)の袖の別れは惜しいけれど」と詠んであるのも、せっかく片袖ずつを合わせて一つに結ばれた二人なのに、今は一人になってしまったという悲しみ。
その袖に人間の魂の存在を見ようとしたのは、例えば人が死んだときに着せられる経カタビラです。これは白い布で、オクミも両袖もありません。袖の無い着物を着ることで、魂の無いあの世の人になったという証拠になります。
逆に死ではなく、子どもの出生を見ましょう。子供は生まれて七日間はボロ布で包んでおいて、七日目にはじめて袖のある着物を着せたものです。七日までは、まだ正常に育つかどうかわかりません。だいたい七日過ぎて、やっと大丈夫だと見て袖のある着物を着せ、名をつけて人間扱いをした。これが日本人です。
これでおわかりのように、日本人の生と死を生理学的に判断することとは別に、袖の有無によって判断したことがわかります。
袖に魂がこめられているとすれば、神様は利口です。人間のフトした不始末を見ると、その魂をとろうとする。その魂のとり方は人間の着物の袖をとるだけで十分です。兵庫県住甲郡石井町では、薬師堂で転んだりすると、片袖を切って帰らぬと死ぬというし、栃木県宇都宮では、墓で転んだりすると片袖だけつけ代えるともいいます。
まり悪霊というものは、人間のちょっとした不始末も、なんらかの代償を要求するもので、ここではその代償が袖だということになります。
だから着物を縫うときは、いろいろな禁忌があります。着物の袖つけは一夜のうちにすませないと、幽霊の片袖になる(大阪)とか、片袖だけつけて放っておくと幽霊が出る(和歌山)などといって、片袖を嫌がる考えは各地にあります。だからきちんと両袖をつけて着物の縫いつけは終わりにしました。
着物は美しい代わりにややこしいです。そのややこしさを抱いて生長してきたのが日本人です。西洋の洋服を着た人たちにはない特別の文化が生まれるのも、着物のおかげでしょう。着物には宗教的といえるくらい深い意味をもちます。
人が死ぬとき、この着物の袖は大きな役割を果たします。さきの経カタビラのように、袖のない着物が死をあらわすとすれば、袖はますます大きな意味をもちます。
岡山県和気郡吉永町の以前の葬式には、人が死ぬと、死人の生前に来ていた着物の片袖をほどいて、これで湯潅をしました。その片袖は棺に入れて野辺送りをしたといいます。
これだけでははっきりしませんが、親しい人が死ぬと、生きている人でいちばん身近な人は、自分の着物の袖をとって死者に供えて埋葬したという歴史があります。つまり別れのしぐさの一つです。
もう忘れられそうになっていますが、子供の死の場合、親は自分の着物の片袖をもぎって棺に入れました。例えば宮崎県下では死産児のときは父親の着物の片袖を添えて埋葬したといいますし、沖縄本島北部の村では赤ん坊が死ぬと、母親の左右のいずれかの片袖をかぶせて墓に送ったといいます。
ぜに赤ん坊の死に片袖を添えるのか。まず考えられるのは、さきに述べたように、生まれた間もなくは、まだ正常な人間とは見られないので、せめて一人前であるように、という親の親切な心がそうしたのか。
いやそうでなく、親しい人が亡くなれば、親でも子供でも、一様に片袖をとって入棺した名残りではないか。私は後者の説をとります。その根拠の一つに、鹿児島県奄美諸島の沖永良部島の島歌に
別りよぬ袖に臭い移しうかば
うりがあるなげや吾んと思い
(お別れに袖に香りを移しておきますから、この香りがある間は私のことを思って下さい)
というのがあります。親でも連れ添いの場合でも歌いました。去って帰らぬ人へ、自分の袖に香りを移して送ろうとする艶ややかな心が感じられる歌で、今では旅に出る人のためにも歌います。
日本人の着物は、美しいというだけではありません。その着物の袖に美しい思想がこめられているということを考えてみました。けっして「袖の下」(賄賂)を要求するときばかりではないということです。
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酒井 卯作(さかい・うさく)1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。
本会理事。民俗学者。
著書
南島旅行見聞記 柳田 国男【著】 酒井 卯作【編】 森話社 2009年11月
琉球列島における死霊祭祀の構造 酒井 卯作 第一書房 1987年10月
稲の祭と田の神さま 酒井卯作 戎光祥出版 2004年2月
など多数。


