あの世への散歩道シリーズ

題字:あの世への散歩道

第12回 死んで行くところ

                         民俗学者・酒井卯作
                         (題字・イラストも)

 人が死んで、すぐに持参するのが香奠袋(こうでんぶくろ)。すべての人ではありませんが、その表には「御仏前」と書きます。死んだら仏様になると信じられているからでしょう。たしかに江戸時代には掟があって、人は死ぬと男女とも剃髪、つまり頭の毛を剃って納棺する決まりで、近年までこの風習は続いていました。つまり、人は死ねば仏様になるということです。

分かれ道

 しかし気をつけてください。私たちはどんなに努力しても仏様にはなれません。仏はお釈迦様ひとりだけ。私たちは仏の弟子になることだけです。その仏弟子になるためには、まず戒律があります。いわゆる五戒で、殺・盗・妄・淫・酒の戒めを守らなければなりません。生き物を殺して作る牛丼やスキヤキは駄目。女房の財布からお金を抜き取ったり、女房にブスといって、けなしてはいけない。美しい女に流し目したり、忘年会で酒を飲んではならない。

 これはまだ序の口、五戒の次には、男は250戒、女は350戒というたくさんの戒めに堪えなければなりません。女に戒律が多いのは、たぶん油断ができないからだと思います。

 どうです。これが仏道の世界です。生きていることに苦労して、死んだ後になっても、こんな苦労を続けたいですか。 その点、神様は違います。神酒(オミキ)は飲める。若い巫女(ミコ)さんは鈴を振って舞もやる。飲めや歌えです。禁欲の仏の世界とは、およそその趣が違います。

 ならば仏の世界より、神様の世界が宜しいといえそうですが、残念ながら日本の神道は、死をケガレとして徹底的に嫌います。つまりこっちが行きたくても、先方が受けつけてくれません。靖国神社などは、あれは明治になって「畏クモ天皇ノ厚キ叡慮ヲ以テ忠士ノ霊魂ヲ祭」(太政官府令)ることから出発したもの。軍国主義のはじまりですが、人間を神に祀るというのも、この頃からです。

 古人は菅原道真を祀る天満宮を見てもおわかりのように、怨霊の祟りが激しいので、これを鎮めるために作られたという歴史があります。全国にある八幡宮も若宮を祀って悪霊鎮圧としたのも、その意図はほとんど変わりません。つまりふつうの人の死の場合、鎮魂の必要はありませんから、神として祀る必要はないといえます。

 結局、私たちは仏にも神にもなれないということですが、しかし心配には及びません。日本にはもっと豊かな風習がありました。四国の土佐山地方では子どもが死ぬと、鳥の羽根を腋に挟んで埋葬したし、佐渡の青木では棺の4隅に鳥の羽を挿します。死後の世界は拘束のない、壮大な天地の間を想像していた名残でしょう。最近流行の「千の風」のように。



再生 第76号(2010.03)
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酒井 卯作(さかい・うさく)1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。
本会理事。民俗学者。
著書
南島旅行見聞記 柳田 国男【著】 酒井 卯作【編】 森話社 2009年11月
琉球列島における死霊祭祀の構造  酒井 卯作 第一書房 1987年10月
稲の祭と田の神さま 酒井卯作 戎光祥出版 2004年2月
など多数。

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