あの世への散歩道シリーズ

題字:あの世への散歩道

第10回 ああ、癌病棟

                         民俗学者・酒井卯作
                         (題字・イラストも)

 聞いただけでも心が暗くなりそうな言葉、それは癌です。その癌の告知をされた人が、絞られるようにして、最後まで社会に奉仕を続ける人がいる。これはよほどの信念と覚悟がなければできないことで、ふつう人ではとても真似のできるものではありません。

担架

 そういう私も、癌とつきあいをしたふつうの人間の一人だから、よくわかります。かつて病院に担ぎこまれて検査の結果、医師がカルテに癌という字を書きこんでいるのを見て、思わず足が震えたことを覚えています。平静を装っていましたが、頭の中はカランカランと音を立てて分解するような感じでした。

 手術の直前、家族と共に病院の特別室につれて行かれて、そこでいよいよ医師の説明がある。いわく。手術しなかったら、余命は3ヵ月。開いて見て、癌が脊髄まで達していたら、手術しても無駄だから中止する。手術はおよそ8時間。輸血は2千㏄用意するけれども、これが手術の最大限の時間である等々。

 医師の声は神の声でもある。もう泣いたって、わめいたって、神様に祈ったってダメ。生死の鍵は医師ひとりが握っているのだ。元気でいるときは真剣に考えなかった死が、いま目の前に転がって来たのだ。

 その夜、看護士たちの足音も絶えた夜更け、私は遺書を書いた。たいして書き遺すようなことはなかったが、身の回りのことを認めて、最後になってハタと困った。本の間に隠してきたヘソクリのことだ。遺書に書けばバレる。書かなくて死んだら、本も共にゴミで捨てられる。迷ったあげく、とうとう書かなかった。本来、男は横暴でケチなのだ。

 手術の当日、手術着に着替えさせられ、手術室から迎えの寝台車が来る。これに乗せられて、いよいよエレベーターで手術室に行くのに、見送りはエレベーターの前まで。手の空いた看護士さんたちが顔を揃えて「頑張って」と声をかけてくれるのを聞きながら、ドアが閉まった。ガタンと乾いた音を立ててドアが閉まり、担当の看護士さんと二人だけになると、急に心細くなって、ふと火葬場の窯を連想した。死人が棺ごと火葬場の窯の中に入れられ、あの鉄の戸がガタンと落ちたとき、窯の中の死人も同じような暗い気持かもしれない、そう思った。

 さいわい手術は成功だった。退院して体もかなり回復した頃、友人に会って、身障者手帳を見せながら「とうとうこんな人間になってしまいました」といって嘆くと、友人はいった。「だって、その代わり大事な命をもらったじゃありませんか」。この美しい言葉は私の胸を突き刺した。まだ余命がある。私は家に帰って本の間のヘソクリを確かめた。明日は競馬のサツキ賞だ。

再生 第74号(2009.9)
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酒井 卯作(さかい・うさく)1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。
本会理事。民俗学者。
著書
南島旅行見聞記 柳田 国男【著】 酒井 卯作【編】 森話社 2009年11月
琉球列島における死霊祭祀の構造  酒井 卯作 第一書房 1987年10月
稲の祭と田の神さま 酒井卯作 戎光祥出版 2004年2月
など多数。

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