海外の葬送事情

ロシア

役所と葬儀業界に利権争いも
 続いている新しい社会の試行錯誤


                             山崎 瞳

 私がサンクトペテルブルグとモスクワで過ごした6年間は、ソ連がロシアへと転換していく最中でした。そして新生ロシアにとって、この14年間はすべての面で試行錯誤の過渡期でした。もちろん葬送事情も例外ではありません。無神論の体制で過ごしてきた人がともかくも宗教的形式で葬送の行事をするようになった。しかしそれは、みんながするからという程度のことで、ロシア正教の埋葬の意味を本当に理解してやっているかという面で見ると疑問に思うこともたくさんあります。この原稿を書くためインターネットで調べてみると、各地で新しい問題も起きているようです。日本の戦後のように価値観ががらっと転換した時代のなかで、人々のこころは揺さぶられました。そのことを思いながら記してみたいと思います。

ソビエトからロシアへ

 もし14年前ならば、この文章の題は「ソビエトの葬送事情」となっていたところです。共産党政権のもとでのお葬式というと、ブレジネフ書記長やアンドローポフ書記長の式などを、ニュースで見たことを思い出される人もおられると思います。吹奏楽団が葬送用の曲を奏でる中、赤い星のついた花輪を先頭にお棺が運ばれていきます。故人が国から勲章をもらっていた場合は、その勲章を刺したクッションを持った人がお棺の前に立ちます。そうやって埋葬される墓地まで行進が続いていくという形です。

 このような風景は、つい14年前まではどこでも見られる普通の共産党員のお葬式風景でした。もちろん、一般の人たちはそれほど豪華にはできません。吹奏楽団の編成も小規模で、素人の場合が多いのです。ですから、へたくそな吹奏楽が聞こえてくると、「あーだれかのお葬式だわ」と思ったものです。「宗教はアヘンである」「信心をする者は二流の市民」といわれた時代でした。

 いまはこのような式は、いまだに唯物論を信じる一部の共産党員がやるぐらいでほとんど見られなくなった光景です。

 共産党政権が崩壊する少し前、ブレジネフ政権のころから、それまで厳しい制約のもとにあった正教会の埋葬式ができるようにはなっていました。共産党時代もわずかながら教会はありました。ブレジネフ以前は、信徒が教会で埋葬式をすることはできても、埋葬のために教会から出て墓地に行くようなことをすると役所に通報されていました。それが変わってきていたのです。いまから思うと、時代が少しずつ動いていたのでしょう。そして14年前、ソビエト連邦が崩壊した途端に人々は老いも若きも堰きを切ったように教会に押しかけるようになったのです。

 ロシアで教会と言えば約90パーセントがロシア正教の教会です。ロシアが正教の国であった帝政時代から70年余のギャップを経て、人々はまた教会に戻って来ました。しかし、共産党の教育を受けて育った若い世代は、きちんと十字を切ることも既にできませんでした。「キリストの洗礼を受けた者」という表現が「ロシア人」の代名詞として詩や文学に使われていた「ロシア」は既に過去のものでした。教会は人々に一から正教を教えなければならなかったのです。どこの教会でも毎日毎日洗礼を受ける人の列ができました。そして多くのロシア国民にとって、映画ではない本物の正教会の埋葬式に参列するのは「久しぶり」のことだったのです。

遺体は土葬がロシア式

 ロシア人はDNAの中に正教が刻み込まれているのかもしれないといわれたり、正教はロシア人のこころ、などといわれたりします。「ひさしぶり」だった正教はその後、急激な「回復力」を見せました。今日のロシアでは80パーセントの国民がロシア正教信徒として、正教の暦、正教の祭日、正教の伝統に基づいて生活を送っています。数年前から国民の祭日として、降誕祭(クリスマス)や復活祭(イースター)など正教の祭日はカレンダーでは赤い色の数字で印刷されています。ロシア正教会総主教が立たれるような大きな教会行事に、信徒としてロシア大統領やモスクワ市長が参祷している姿も普通の光景となりました。正教の埋葬式も国民の間に定着しました。ソビエト連邦が崩壊し、新生ロシアが誕生してから14年の間に実にこれだけの変化があったのです。

 正教会の埋葬式は、教会で埋葬式を行った後、墓地に行ってお棺を墓穴に降ろして埋葬します。参祷者の間には埋葬式や墓地に行くときに、服装を黒にしなければならないとか、特別に何かを着なければならないという発想はありません。皆、ごく普通の服装で参祷します。お棺の中にたむける花束もカラフルで、故人の好きだった花やきれいな花を思い思いに持ってきます。埋葬や法事の時の花の数は偶数本です。そもそもお棺もカラフルで、黒とは決まっていません。赤やピンクやブルーのお棺もあります。

 一般信者の埋葬式は、午前中に行われる聖体礼儀の後、午後の時間帯に行われ、大体30分から1時間かかります。ロシア正教では殆どの人が火葬という埋葬形態を現実のものと考えていません。土葬が当然と信じて疑いません。日本では殆どが火葬だと話すと驚いて同情します。「炎熱地獄」のようでかわいそうだ、縁起でもないというわけです。もちろん火葬場や納骨堂は存在しているのですが、あえて火葬を選ぶ人は葬儀費用が安くて済むからという理由がほとんどだそうです。一説には、葬儀全体のほんの数パーセントくらいの人が火葬を行うのだそうです。

 映画「ゴッドファザー」をご覧になった方ならご存知の通りの光景です。土に埋めるという言葉は正教会の用語でそのまま遺体を土に埋めることです。火葬の日本信者にはその感覚は抽象的なようですが、東京・神田ニコライ堂の日本正教会東京復活大聖堂の歴代主教は、日本でも許可をもらって谷中の墓地に土葬されています。

 修道院の場合には、修道院の敷地内に修道士たちの墓地があります。

 サンクトペテルブルグ北西250キロのペチョーラ市にあるプスコフという修道院の場合は、洞窟が修道士たちの墓地となっていて有名です。岩の崖に高さ2メートル、幅2メートル程の入口がくり貫かれ、鍵のついたドアが設けられています。中に入ると、広間のようになっています。そこがお墓で、新たに永眠した修道士のお棺は前の人のお棺の上に積み上げられていく。下のお棺は次第に上に積み上げられたお棺の重みでつぶれています。土に帰って行くのですが、これがなんと腐敗しないのです。私も数回訪れたことがありますが、積み上げられたお棺の山を目の前にして臭気すらしないというより、かえって清浄な空気が漂っているのです。一説には洞窟内の砂の成分の働きだという人もいますが、人々はこの修道院の祈りの力であり恩寵であると信じています。

苦情が多発する葬儀業界

 共産党政権が崩壊してから、いろいろな物の私有化が実現しているロシアですが、土地の私有化はまだ認められていません。墓石や墓碑は個人で所有することができますが、墓地は個人で所有するものではないのです。このような事情の下で埋葬するには、まず役所の窓口を通さなければなりません。一方で、ロシアでも葬儀業界ができつつあります。そうした業界にどこまで参入を許すのか。官民での役割分担の境界線をどこで引くのか、その駆け引きで法律がしばしば変わるのが現状です。

 ロシアだけでなく、旧ソビエト連邦から独立した国ではどこでも似たような状況です。ウクライナの首都キエフでは、葬儀を依頼する窓口は役所が一括しており、そこでどのサービスをいくらで役所が請け負い、どの部分を業者にまわすかを「顧客」と決めるシステムになっています。そのことに葬儀業界は大反対です。というのは、霊柩車での遺体の移動や、墓掘り、火葬といった収益の上がる部分を役所が優先的に独占してしまうからです。おこぼれにしか預かれないのです。

 しかし、もともとビジネスという考え方はないに等しい国でした。ビジネスがサービスを提供することなんてありえない。会社を起こすほうもどこまで利潤を上乗せしたらいいか感覚がつかめない。頼む方も経験がないので高いか安いか尺度になるものがない。実際には葬儀業界の内情も多種多様で、サービス内容と金額が釣合わないなどの苦情も多発しており、まだまだ市場経済の中での葬儀業界自身が成熟していない様相を呈しています。

 モスクワ市には、墓地は新しくつくったのではない場合には、前の埋葬から13年半以上経っていなければならないという法律があります。私たちがいた頃は確か20年以上でした。この原稿を書くためにインターネットを検索していて気づいたことです。短縮された理由はなんでしょうか。ロシアの場合どこでも郊外の墓地は果てしなく広く、敷地に困っているようには見えません。葬儀業界との関連でもあるのでしょうか。

 モスクワ市の場合は、1997年6月に施行された「モスクワ市における埋葬及び葬儀事業について」という法律を実施するための詳細な政令が出されており、それによって市が設定している専門家会議が認定した葬儀社に就業免許を与えるシステムになっています。このライセンスを持っている葬儀社が行える葬儀業務は、行政の指導を受けながら、窓口相談、お清めの席の設定、果ては空輸用の亜鉛棺の処理まで多岐に渡っています。

 少し現地にいないだけで分からないことも増え、時代はどんどん進んでいくという思いがします。

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やまざき・ひとみ(山崎瞳)
上智大学外国語学部ロシア語学科卒業後、ソ連時代のロシア正教会レニングラード神学校聖歌式科に留学し卒業。6年間をレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)とモスクワで過ごし、1992年に帰国。2000年にともに帰国したロシア正教会の神父が日本正教会東京復活大聖堂の神父になったため、東京・神田のニコライ堂に居住する。

「再生」第68号(2004年12月)

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