海外の葬送事情

イギリス-その1

個人の判断に委ねられる骨灰の処分
    条件満たせば私有地での埋葬も可能


                   モリス・ジェンキンズ(和英翻訳家・英語教師)  

著者

 葬送の方法は、社会や宗教、文化などの違いによってさまざまだが、私の国、イギリスの葬法は土葬と火葬である。歴史を簡単に辿ってみたい。今から約1400年前、ローマ軍占領が終結し、それを継いだアングロサクソン時代の墓地から発掘された遺跡をみると、土葬と火葬の両方が行われていたことが分かった。当時は、多神教社会だったので、それぞれ異なる葬法だったと推測される。6世紀末以降、アイルランドとローマから来たキリスト教の、「人間は土に帰る」という教えに基づいて土葬が広められ、遅くとも9世紀にはそれが主流となって20世紀の中ごろまで続いた。この1000年間に多くの変化をみたことはいうまでもない。

中世は、天国への鍵を教会が握る

 死、死に方、葬送に大きな影響を与えたのはキリスト教だ。死後、人間が行くところは天国と地獄であり、そしてその中間に何百年かの間、罪が浄化される場所としての煉獄という三つの概念が形づけられた。人々は、いわゆる「善死」を遂げるために何が必要かを決めたり、埋葬地の選択と必要な条件を指摘することにより、ある意味で社会差別を強めていったと言える。中世の国民にとっては、教会が天国への鍵を握る存在で、教会墓地に葬られることこそが天国に入るためのひとつの条件だと信じられていた。未洗礼の子供や自殺者、ハンセン病患者、ユダヤ人などは墓地への埋葬を許されず、社会のカテゴリーは埋葬場所にも反映された。

 11世紀に中央集権化した教会は17世紀末ごろまで、死と葬送の儀礼に決定的影響を与えた。しかし、その間に教会の性質もだいぶ変化した。とくに16世紀に起きた宗教改革の枠組みの中で、ローマカトリック教会と断絶し英国国教会を創立したヘンリー8世によって、煉獄という概念は削除され、死後の行き先は天国と地獄だけとなった。葬送に伴う礼拝の基本的パターンはあまり変わらなかったが大幅に簡素化された。14世紀以降、不定期に流行した腺ペストによる大量の死者が出て混乱した時期を除き、大多数の人は自分の家で死を迎えた。死を迎える前に神父を呼び、終油という秘蹟をいただいてから死ぬことを理想とした。ぬるま湯で洗った後、布で包んだ遺体の周りを、遺族や親戚の人々が悪魔の来ないようにローソクやランプで灯し見守るのが普通だった。

 教会での鎮魂ミサが終わると、親戚や友人によって墓場に埋葬された。会葬者は葬儀を終えると死者の家で食事をしてから解散した。最期の時から埋葬までの流れは家族や親友で構成されたメンバーで営まれ、ある意味で、生と死の間にはっきりした区別があるのではなく、むしろ「生者と死者の共同体」が作り上げられた。このようなパターンが根本的に変わるのは17世紀末から18世紀だったが、それを述べる前にもうひとつ触れたい。

葬儀屋が現れてきた17世紀後半

 キリスト教以外に死や葬式に決定的な影響を与えたのは「社会的地位」だった。アングロサクソン時代はそれが副葬品に現れた。古墳の中からは立派な船や男性の骨格、飾りものや武器などが出てくる。豪華さから地位が推測される。キリスト教導入後は、天国に入るためのひとつの条件だった埋葬地が社会的地位を示す物差しとなった。地位ある人は、石棺に入れられ教会の地下室や石の床下、壁の中に安置され、名前や地位、業績が石に刻まれた。それほどでもない人は、教会の建物に近い場所に棺に入れられ埋葬された。普通の人は布に包んだだけで埋葬された。

 エリザベス1世の治世のもと経済成長した16世紀後半には、極貧者を除いてだれでも棺を求めるようになった。少しわき道になるが、棺に入れる前に遺体を包む布は、輸入に頼った木綿が国産ウールの座を脅かし始めたため、1666年「ウールで包む遺体埋葬に関する法」が施行された。実際はほとんど無視されたが1815年までこの法はあった。

 17世紀になると、棺だけでなく立派な葬儀を希望する人たちが増え始めた。王立法人・紋章学院(1484年創立)が主催する葬儀がモデルで、貴族ランクにあわせた棺や、棺にかける布の種類や大きさ、忌中紋章の掲示、葬式行列のあり方などを細かく規定した。経済力を増した中産階級が小規模でも貴族の葬儀をモデルにするようになり、葬儀は個人の富の公開提示の場と化し、死の世俗化への動きが始まった。葬儀屋が初めて開業したのは1675年だった。

産業革命で教会から開放される墓地

 1741年、600万人だった人口は、1850年には1790万人と急増する。産業革命とそれに伴う都市化が進む。不衛生な環境の中、コレラその他の病気が大流行し大量の死者が出た。急激な増加に既存墓地では対応できなくなり、ロンドンなどの大都市郊外に私立墓地株式会社が設立された。ほとんどは数十年で経営に行き詰まり地方自治体の経営になったが、新墓地によって、それまで教会の独占だった墓地が開放された。

 1900年4月には、初めて霊柩車が登場した。人々が葬儀に関する手続きをすべて葬儀屋に任せるようになったのは19世紀中ごろ以降だが、次第に費用が高すぎるなどの非難の声が上がり始めた。業界や政府から規制が始まり、現在は、客の希望に応じ、「ベーシック葬儀サービス」の提供が義務付けられるようになった。

 イングランド火葬協会は1874年に創立された。1919年の調査では99パーセントは土葬だった。1944年に英国国教会が、1965年にバチカンが火葬を認めるようになった経緯もあり、1998年には72%が火葬になった。

火葬の後、サンドイッチで故人偲ぶ

 さて、ここで、ある程度まで現代のイギリス葬送事情を反映する私個人の体験を述べたい。父は亡くなる5年前、アルツハイマー病と診断され死への旅路が始まった。風邪が引き金となり1991年2月に死を迎えた。日本にいた私は、ようやく葬式には間に合った。母はその翌年10月にがんで亡くなった。イギリスではがんと診断したら本人に告知するのが普通だ。母にもすぐに知らされた。最初は余命1年と言われたが、時間が経つにつれ死期が早まり、最期が近いという連絡を日本にいる私が受けたのは亡くなる6日前だった。

墓地
英国中部地方の教会の墓地

 家内や子供たちとイギリスへ飛び、母の入院する病院へ行った。母は私や孫たちと会いたくて首を長くして待っていたようだった。翌日、病院を訪ねると、元気なころ、教会でオルガンを弾いたり歌を歌ったりすることが好きだった母は、教会の神父さんを呼び、自分の葬式の礼拝で歌われる賛美歌を決めたり、墓石の父の名の下に自分の名を刻んで一緒に埋めて欲しいなど、細かく打ち合わせをした。すぐ死を迎えるとは思えないほど、穏やかで平和な心に満ちた姿だった。3日目の夜、私がひとりで病室を訪ねたとき、母は「今日は私が死ぬ日です」と言った。翌朝、病院から「夜中に亡くなった」と知らせが来た。

 私は、父の葬式のときに利用した「コープ葬儀サービス」というところに電話を入れ、いろいろと打ち合わせをした。葬儀屋の手配する車で、遺体を病院から葬儀屋の安置室へと直接運んで貰い、私たち遺族は、そこで、ゆっくりと母との別れをした。母の髪や顔などは葬儀屋の手できれいに整えられていた。ちなみにイギリスでは米国と違って、あまりエンバーミングは施さない。

 葬式前日、葬儀屋の車で母の馴染みの教会へと運び込まれた。当日は、葬儀屋が手配した迎えの車で私たちは教会へと向かった。礼拝は、母の友人たちも加わり母の希望通りに行われた。その後、霊柩車で火葬場へ運ばれ、いよいよ最後の別れとなった。火葬が終わると、皆で家に戻り、紅茶とサンドイッチなどを食べながら故人を偲んでから解散した。

自由な葬送を求め増える「自然墓地」

 以上のような流れが大体、現代のイギリスの代表的な葬儀と言えるが、遺族の希望に応じて、例えば、1時間、あるいは1晩、家に棺を安置するなど、いろいろと可能だ。葬式全体の費用は13年前で1100ポンド、現在のレートで約22万円になる。13年前、円はもう少し高かったが、それでも日本とは比べものにならないほど安い。

 ちなみに、イギリスでは日本のような香典制度はない。私は母の生前の希望通り、「もし、私のために献花をして下さるなら、それを辞退する代わりにその代金をがん研究に携わる非営利団体に寄付していただきたい」という旨の死亡広告を地方新聞に掲載した。

墓地葬列
自然墓地の森の中を進む葬送の列

 母の場合、骨壷を父の眠る墓に一緒に埋葬したが、基本的に骨や灰の処分方法は個人の判断に委ねられる。とくに、灰の処分について、いろいろなやり方がある。2005年3月、ウエールズのスオンジーサッカークラブは、旧グラウンドに埋葬の骨壷の持ち主が希望すれば、その骨壷を新グラウンドに埋葬できるし、また、灰を撒きたい人には特別な「メモリアルノート」を用意する、と発表している。

 今から10数年前の状況を振り返ってみると、ちょうど世紀末も近づいてきているころで、人々の死や葬式に対する意識の変化もそのころ起こってきたようだ。背景には、キリスト教や特定の教会に所属する人が毎年減少傾向にあったことや、教会に属していない場合は火葬場でのごく簡単な短い別れの言葉に不満を持っていたことなどがある。また、自分の気持ちのままに形式にとらわれないで表現できる自由な葬儀を希望する人や、死後も環境にやさしくありたいと願っている人の増加などもあげられる。そのような人々のニーズに応えて、1994年に、最初の「自然墓地」が創立された。

 自然墓地には自由に灰を撒くことも埋めることもできる。もちろん、埋葬することもできる。自然墓地は人々に受け入れられ、2003年までに182ヵ所にも拡大した。できた当初は葬儀業界から強い反発を受けたが、業界は次第に客の希望に応じて、下は簡単な棺から上は完全サービスまでと幅広いバリエーションを提供するようになった。

 科学文明が急速に進歩している昨今、墓石もいらない、自然に帰して欲しいと希望する人が増えてきた。これは近い将来、主流になるのだろうか。

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 モリス・ジェンキンズ 1940年、英国・ウエールズ生まれ。
 ロンドン大卒。ロンドンで10年ほど国際交流に携わる。1973年から2000年まで、東京のブリティッシュ・カウンシルに勤務し、教育、社会福祉、医療・看護ケアなど分野で日英交流に努めた。アレンジした日英シンポジウムには3年連続開催の「緩和ケアとホスピスのあり方」などがある。


「再生」第57号(2005年6月)

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