海外の葬送事情

中国

改革・開放でまた派手になった墓地
  丘陵のはるか彼方へ墓石が立ち並ぶ


                   法村香音子
                  (NPO法人富士北麓まちづくりネットワーク代表理事)


 4年前に中国遼寧省丹東市の北朝鮮との国境の鴨緑江に父の散骨をした。行かねばなあと思っていたら、妹が親戚のように懇意にしている朝鮮族の宗さんからご主人が癌で亡くなったという連絡が昨年あった。葬儀は5月初めに行われ、すでに墓も購入済み。遺骨は現在公共の納骨堂に預けてあるが、私たちが行くのを待って墓に納める段取りだという。15日以内の観光であればビザなし渡航ができるようになったので、今では中国はすぐにも行ける近い国になった。とはいえ、妹も私も日程の調整が容易ではない。どうせ葬儀も済んでいることだし急いでもしょうがないから、夏休みにしようと意見が一致した頃、まるでそこを見通したかのように会から原稿依頼があった。この報告は、昨年9月末現在のホットな「中国の葬送」の実際である。

昔は大木をくりぬいた棺もあった

 中国は毛沢東の時代になって葬式事情はかなり様変わりしたと思っていたが、今回行ってみて、改革・開放でまた自然破壊・環境破壊の方向へ押し戻されているように感じた。

 そこでまず、中華人民共和国成立前と後の、お墓を含むお葬式のことなど、私が知る限りの事実を述べてみたい。

 結婚式の“紅事”に対してお葬式のことを“白事”というぐらい、中国のお葬式は昔は非常に派手で、馬や牛といった家畜や派手な屋敷や人形などの張りぼてを担ぎ、紙銭をまき散らしながら、白い布帽子を被ったり長いハチマキをした白い長服の男女が、行列を作ってわあわあ泣きながら野辺送りをするのをよくみかけた。

 ハチマキを後頭部に垂らし、白い布を巻いた柳の杖(哀杖)を持っているのは死者の息子の装束、子どもの少ない家はいわゆる泣き女泣き男を雇うのが普通であった。

 またこの頃の年寄りは元気なうちにお棺(頭の方がやや高く作られた寝棺)を用意して居間の土間に安置し、大切そうに磨いていたものだ。この世の苦しみから逃れる用意が出来ている身分を喜ぶのだそうである。

 私は地主の家で、黒塗りに金粉模様が施された、1トンはあろうかと思われるような、とてつもない立派なお棺を見たことがある。大木をくり抜いたもので、蓋は一人では容易に動かせそうもないぶ厚さだった。

 その頃の中国も木が少なく、岩山にしょぼしょぼとか細い灌木が生えているのしか見たことがない私は、(中国の何処にこんな大木が生えているのだろう)とびっくりしたものだ。

 少々格が下がったところでも、日本のまな板より分厚い板でできていた。それを何処で見たかというと、朝鮮戦争最中の1952年、通化の医士学校在籍中に古い土饅頭の整理に参加した時だ。

 地主一族のものだったという土饅頭が群をなすその墓地は、通化の町を見下ろす高台にあった。そのころは土葬が一般的で、土手やあぜ道あるいは畑の隅や真ん中に、三つの煉瓦で祭壇のような小さな入り口を備えた土饅頭が、ぽっこりむっくりと盛り上がっているのが普通のお墓風景だった。

 ただし本当の貧乏人は上記のいずれにも該当せず、これからも生きていかねばならない家族のために衣類さえ剥がされて、渾江や鴨緑江に夜密かに葬られるのだという。幼い私が父と鴨緑江に釣りに行っていて、裸で浮き沈みしている人の背中を見たとき、中国人を良く知る父がそう言った。

 紙銭のまき散らしや紙銭をお墓の前で焼くことも、豪勢な棺桶や一等地の墓地も死体遺棄に等しい水葬も、この時代の人の死に関わる習慣は、自然破壊、環境破壊の代表格だったといえる。

毛沢東時代にすすんだ葬儀の簡素化

 中国は56もの民族を擁する国であるため、水葬、樹葬、天葬をはじめ20数種に及ぶ弔いの仕方があったことに驚かされる。そしてまた2,000年余の歴史をもつ封建社会において、階級差別の象徴としての葬送の様式が確立されていく過程を見ていくと、葬送の風俗や習慣は、歴史の推移や社会経済、とりわけ政治の影響を受けやすいのであり、人ひとりの生き方にも大きく関わるばかりでなく、後の世代にも影響を及ぼすものだということがわかる。

 中国の土葬は“新石器時代(紀元前3,500年~2,000年)”から、そして火葬については“春秋時代(紀元前722年~481年)”の書物にすでに記載があるといい、火葬はもともと遊牧民族がその起源といわれている。

 仏教の伝布と共に拡がるのをみて火葬の生命力が強大なるものと恐れ、宋太祖が火葬を禁じたのち、明清時代に禁止および処罰の対象となることが明文化されたという。その後は儒教による孝道と階級差別強化のため、葬送の形式に重きがおかれるようになって、皇帝の墳墓ができる一方で闇に紛れて流される人も出ることになったのだ。

 国民党(蒋介石政権)になると一時期やや簡素化されたものの、今度は政治腐敗が蔓延したため、地主や金持ちを中心に却って派手な葬送が行われるようになった。やがて中華人民共和国が成立し毛沢東の時代となって、迷信の一掃、習慣の革新が住民の意識改革学習の主要な内容となり、花嫁花婿は人民服に造花をつけるだけで結婚式も何組もの集団が職場単位で行われるようになり、葬式では泣き女や泣き男が見られなくなるなど、冠婚葬祭の簡素化が進んだ。

 私の手元には、1983(昭和58年)の資料(これ以前はまとめられていないようだ)しかないが、チベットの鳥葬を除いてほぼ100%が土葬だった中国で、都市部においては“火化(火葬)率が90%以上となっている。しかし全国平均は30%前後、とあるから、農村では相変わらず土葬が多かったようだ。この資料によると、人口おおよそ7億と推定されていたこの当時、全国で火葬場が1,200カ所、”火化炉“は2,500余と極めて少ないから、火葬を促進できる経済的条件がなかったといえよう。

撫順の石炭露天掘りのような共同墓地

 一日千秋の思いで私たちを待っていた、と涙、また涙の抱擁のあと、テレビの横に立てかけてある故人の写真に日本から持っていったお線香を立て、白酒(中国の地酒パイチュウ)を供えて私たちは中国式に三顧の拝礼を済ませ、丹東市主催の葬儀がいかに盛大に取り行われたかを宗夫人から聞いた。

 当市の幹部クラスであったこと、また職を退いたのちは朝鮮族老人会の要職についていたこともあって、朝鮮族の参列者を含む3000人が市内を進む葬列に参加した後、市主催で盛大な追悼式と宴会が催されたそうだが、市当局のこの取り扱いは中国の民族政策の色合いが濃いセレモニーだと遺族も了解し、それを可として満足し喜んでいる様子だった。

 そして帰国前日に、宋さんとその長男、長男の友人そして私たちで、故人との再会を果たすべく、宋さんが夫のために購入した“市営花園公墓(共同墓地)”へと向かった。

 タクシーで中国独特の彫刻と原色が施された見上げるような門をくぐり、急勾配の坂道の途中にある門衛のチェックを受けて、更に丘陵の頂上へと向かう。空が高く開けたそこは、風情のある東屋が佇む蓮池のほとりであった。

 タクシーから降り立った時、私はあっけにとられて思わず「ひえっ…!」と声をあげた。

 見ると、右と左そして足下から山裾に向けて、まるで撫順の露天掘りのように遙か彼方までうねうねと墓石が立ち並んでいるのである。

 新しい墓作りに精を出している労働者の背中越しに、70万人が住む市街地のビル群と鴨緑江を挟んで北朝鮮が一望できる絶景。その丘陵丸ごと一つが墓地となっているのである。

 「丹東には公墓が2カ所あるが、もう一つのいま開発中の公墓は昔の墓地の上に作っているものだから、値段が高いけれどこっちにした。ここは眺めも良いしね」

 労働者が掘っているのは一列8基分の長方形の穴で、その横には8個の四角い穴の空いたコンクリートの蓋が積んであった。1基の広さはみな同じ規格のようで、約90センチぐらい。

 1日で30人という需要背景に応え進む開発

 丹東3区(振興、元宝、振安)の1日の死者30人という。その大需要に向けて、頂上から開発し、完成する順に分譲を行っているのである。

 改革・開放政策がとられて間もないころ、中国では南方地方の何百年という大木が棺桶のために大量に伐採される自然破壊が行われていることが問題となったし、地方幹部が身内の葬儀の際に大金を懐に入れ、収賄で死刑になるという事件も何件か報道された。

 そして市場経済が活発化するにつれて、葬儀ビジネスもこのように年々派手に展開されるようになったと思っていたが、これでは派手な墓石を並べた石屋が大繁盛なわけである。

 中国では一昨年から土葬が禁止となったそうで、丹東では公墓苑(共同墓地)の入り口近くの高い煙突が立つ石炭を燃料とした煉瓦造りのこれまでの火葬場が、“骨灰堂”と併設された火葬場の電気炉にとって替わったという。

 火葬料は地域によって異なるが、80元(日本円=1,040円)もかからないそうだ。

 火葬の時は、「向遺体告別」といって参列者が遺体のそばに歩み寄り、お辞儀をして別れを告げる。火葬後は、日本のように骨を拾うことはぜず、指定された日に遺族が“骨灰盒(骨箱)”を受け取りに行くのだという。

 “骨灰盒”はおおよそ高さ20センチ幅30センチ奥行き20センチぐらいの飾り掘りのある木箱で、値段はピンからキリまであるそうで、3年前に国石に指定された満州族自治区岫岩県産出の玉石の彫刻を填め込んである崔氏のは、880元(日本円=11,440円)だったと云っていたから、20年前のピンの10倍の値段である。

 追悼会のあと、“骨灰安放儀式(納骨式)”が、故人の生前の所属部門の責任者や友人代表、親族で行われる。“骨灰堂”に“骨灰盒”を安置し、藍色の表紙の小さな“骨灰寄存証(骨箱預り証)”を受け取る。その預り証にはお堂の室番号が記されてあり、命日や清明節とか祭る時に持参する。(預け料88元=1,144円)

 宗夫人はこのほかに、これよりやや大きめの墓地購入証を持っていた。

一般中国人の年収を超す墓の値段

 私たちは、アカシアが木陰をつくる丘陵の斜面にビニールを拡げ、西を上位と定めて“骨灰堂”から借り出してきた“骨灰盒”を安置し、線香立てを置いてお酒やお菓子や果物を並べ、あたりにお酒を振りまいて清め、みんなで順番に拝礼を行った。

 そしてピクニック気分で芋や桃やトウモロコシをを囓りながらお酒を酌み交わし、故人の想い出を語ったのち、息子が再び“骨灰盒”を預けに行って私たちは山を下った。

 朝鮮族はこのような祭り方をするが、漢族は墓前で紙銭を燃すため、これは迷信であり火災を招く危険があるからと、随所に「厳禁墓区用火」と注意書きがしてあった。

 公墓に預けてある骨箱は、高級幹部を除く一般人の場合は3年を限度として更新料を払うか引き取らねばならないが、引き取り手のないものは合葬されるという。

 夫婦は合葬するが“何々家の墓”というのはないそうで、孝行娘や孝行息子が多いらしいこの公墓には、故人の名前に添えて「愛する父、母」「尊敬する母」などと赤で彫られた墓碑が多く、これらには遠い地方の人のも散見できたが、渤海を渡ってこの東北に移り住んだという歴史を物語るかのように山東省人の墓が多数見受けられた。

 丹東旅行社の曾さんによれば、区分によって1万から2万元以上と値段に差があると云うが、宋さんが亡夫のために今回買った一基は12,600元(日本円=163,000円)だったという。

 頂上近くの眺めの良いところに既に宗さんの両親の墓もあったが、その値段は聞いていない。一般中国人の年収を超す金額が2基分も、と考えると、これまた驚く他はない現実である。

 曾さんによれば、一般的には火葬のあとお金を出して共同墓地に安置して貰うか、田舎では山に埋葬するかであり、山や川で処理する場合は何ら手続きを要せず、お金もいらないそうだ。

 現在の中国の葬送事情は、市場経済発展の両極現象をそのまま反映し、一方で環境破壊が進むと同時に、他方では古代返りもアリということのようである。

 中国は、これからいったい何処へ向かって進むのだろうか…。

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のりむら・かねこ(法村香音子) 1935年、旧満州生まれ。
鴨緑江河口の都市、丹東で育った。戦後、中国共産党の軍隊に連行されるなどの経験もある。衛生技術幹部学校や医士学校などに学んだのち、北京に出て中国人民大学政治経済学科を卒業した。58年に帰国。さまざまな職業についた後、東大原子核研究所に事務補佐員として就職。その後、技官になってシンクロトロンの運転、保守、開発担当の責任者になるなど異色の経歴を持っている。
現在山梨県山中湖村 で外国人の世話をしながら街づくりをする運動を進めている。


「再生」第56号(2005年3月)

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