海外の葬送事情

マリ共和国

明るく生きる人々と高い死亡率
 質素簡潔な葬儀通し静かな別れ


          伊東未来(大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程に在籍)  

 マリ共和国は、西アフリカの内陸部に位置しています。日本ではあまりなじみのない国かと思いますので、まずはマリの概要について少し書きたいと思います。 北部にはサハラ砂漠が広がり、国土のおよそ半分を占めています。中部には、ニジェール河の自然増水がもたらす肥沃な内陸三角州(およそ4万平方キロ、九州ほどの広さ)が広がっています。南部は綿花や落花生、果物の栽培がさかんです。中世以降、マリには複数の帝国・王国が栄えてきました。ガーナ王国(8―11世紀)、マリ帝国(13―15世紀ころ)、ソンガイ帝国(15―16世紀)といった過去の諸帝国の歴史は、いまでもマリの人びとの誇りとして語り継がれています。

■「統計」の物差しに現れない豊かさ

 現在の人口はおよそ1260万人。15以上の異なる民族集団の人びとが生活しています。ムスリムがおよそ9割、クリスチャンは1割弱、そして少数のアニミストがいるといわれています。1960年の独立後に社会主義路線をとり、その後、軍事クーデターを経て多党制への移行などを経験しました。これらの政治的変遷に1970年代から80年代の深刻な干ばつもあいまって、独立後は経済的に不安定な状況が続きました。しかし、近年は政治的にも安定しており経済は上向きです。

 国連の統計では「世界の最貧国」のひとつに常にランクインし、統計的にみると貧しいかぎりですが、ひとたびマリのなかに足を踏み入れれば、統計とはひとつの物差しにすぎないことを実感する光景ばかりです。肥沃な土地、市場に並ぶ豊富な川魚、濃密な香りを放つ果物、カラフルに着飾った人びと、複数の民族言語をあやつり市で値段交渉をするたくましい商人たち、宗教の違いをあまり気にせず共存している人びと。ゆたかで魅惑的な国です。

 もちろん、なにもかもがその気候のように明るくカラリと楽観的なわけではありません。平均寿命はおよそ50歳、乳児死亡率は10パーセントを超え、5歳以下の死亡率は23パーセント、出産時の母親の死亡は10万件のうち577と世界でも最低水準です。私は首都バマコのほかジェンネという町で合計2年半生活しましたが、やはり、これらの数字の悲しさを実感しました。兄弟の数を尋ねられ答えると、「それは生きている人数? それとも生まれた人数?」と当然のように問われます。幼くして兄弟・姉妹を亡くす人びとが多いのです。色濃く生きる人びとの輪郭の太さと、頻繁にご近所のお葬式に参加しなくてはならない生のはかなさ。この両方をまのあたりにしました。

 「マリの葬送事情」といっても地方や民族によりさまざまです。ここでは、私が数日訪れたドゴンという民族の村の首長の葬送と、2年暮らしたジェンネという町での体験をもとに紹介します。

■崖の穴に埋葬される村の首長たち

 ドゴンの人口は約70万人、バンジャガラの崖と呼ばれる急峻な崖の下に500以上の村を形成して生活しています。始祖や神について物語る彼らの深遠な神話の世界は、多くの研究者や旅びとを惹きつけてきました。1989年には、ユネスコの世界遺産に登録され、欧米から多くの観光客が訪れます。突然あらわれる荘厳な崖の下に小ぢんまりと佇むドゴンの村々の景観は、奇妙でありながら落ち着いている、という不思議な印象でした。

 それぞれの村にはホゴン(もしくはオゴ)と呼ばれる首長がいます。村の住民のなかから長老たちの話し合いによって選ばれる男性です。ホゴンはたいへん重要な存在です。村のあらゆる祭祀をとりおこない、不妊や病気といった村の人びとの悩みを供犠や祈りで解決し、争いごとの裁定をするのです。特別な存在であるゆえに移動や食べものにも多くの厳しい制限があり、それらを守りながら、亡くなるまでホゴンとして暮らします。

 ホゴンが亡くなると、崖に開いている穴に葬られます。南北およそ150キロにもわたる崖の高さは場所によって異なりますが、平均して500メートル。この崖には自然にできた横穴が無数にあいています。歴代のホゴンはこうした穴のいずれかに葬られているそうです。ほぼ垂直の高い崖に、どうやってなきがらを運ぶのか。驚いて尋ねると、村の人は「当然だろう」という口調で説明してくれました。それによると、ロープを携えた数人の若者が、崖の登りやすい部分を伝って穴のひとつに登り、ロープを降ろす。ホゴンのなきがらにそのロープを巻きつけ、穴までゆっくり引き上げるのだそうです。危険に思えるこの作業も、ドゴンの人びとにとってはそれほど大変なことではないのかも知れません。私が崖に至る岩の連なりを両手をついておそるおそる登っていたとき、村の子どもたちは軽やかにはだしで駆け下りていきました。

 ホゴンとその妻以外は村外れの墓地に埋葬されます。ドゴンの人びとは20世紀に入ってキリスト教やイスラームへさかんに改宗していますが、ホゴンの崖の穴への埋葬はいまも続き、信仰に関係ありません。ドゴンの村をたった数日間訪れただけの私ですが、顔をあげれば必ず目にはいってくる崖に村の支えであるホゴンが眠っている、ということに不思議な安心感がわいてきました。

■死者が出ると駆けつけるイスラーム僧

 次に紹介するのは、マリ中部のジェンネの葬送事情です。ジェンネの町は、ニジェール河内陸三角州のほぼ南端に位置しています。生業を異にする10以上の民族、およそ1万3000人が、面積1平方キロたらずの土地にひしめきあって暮らしています。中世以降、この町はサハラ砂漠の南北(北アフリカやアラブ諸国と、熱帯アフリカ)をむすぶ交易の重要な中継地として栄えてきました。また、交易を通じて古くからイスラーム化し、西アフリカのイスラーム学術都市のひとつとしても知られてきました。こんにちでも50以上のコーラン学校があり、子どもたちは小学校にあがる7歳ころになると近所のコーラン学校にも通いはじめます。他国から留学してくる学生もいます。泥の日干しレンガとしっくいという、独特の泥の建築様式でも有名です。町の大部分と周囲の遺跡はユネスコの世界文化遺産に登録され、欧米などから毎年1万数千人の観光客がやってきます。

 イスラーム学術都市としても名高いジェンネの町の葬送は、やはりイスラームの慣習にもとづいています。しかし、ひとくちにイスラームといっても、世界中のあらゆる地域でそれぞれの発展を経ています。ジェンネでも、もともとあるこの地の慣習がかいまみえます。しかし、この町に2年暮らしてみてたしかに言えるのは、ジェンネの人びとは、病に伏しても死を迎えても、近しい者の死を経験しても、いつも傍らに彼らの神アッラーを感じているのだ、ということです。

 お葬式は3日間つづきます。ほとんどの人は家で亡くなります。町には県立病院がひとつありますが、ちょっとした怪我の治療と風邪の診察しかできないような規模です。さらに多くの住民は、大都市の病院への入院に必要な現金収入はないため、病院で亡くなる人はごくごく一部です。人が亡くなると、その場が病院でなければ、近所の年配の人やマラブー(コーラン学校の先生などをつとめるイスラーム僧)が、確認に駆けつけます。 泣きさけぶ家族、手を握って落ち着かせようとする友人、親類や友人に死を知らせるよう使いにやられる子どもたち。ここに暮らしているとはいえやはり「よそ者」の私は、こういうときに何もできません。同じ長屋に住み、とても親しくしていた人が亡くなったときもそうでした。私のところに、亡くなった女性のお母さんがやってきました。そして、「お葬式で人が集まるだろうから、うちのゴザだけでは足りない。あなたのも貸してくれるかな」と頼まれました。土間に敷いていたゴザを巻いてお母さんに渡したとき、一気に悲しさが込み上げてきました。

 お葬式が始まるというお知らせも宣言もありません。家の敷地にゴザが敷かれ、人づてに知らせを聞いた人びとが少しずつ集まって腰かけていく。こうしていつの間にか、お葬式が始まります。

■モスク前の広場で葬列が特別礼拝

 お葬式は3日間続きますが、埋葬は亡くなったその日に行われます。あとの2日は、弔問の人びとが家族をなぐさめ、一緒に食事をするなどして過ごします。乾季のピークには50度を超えることもある乾燥サバンナ地帯です。暑さが、亡くなったその日に行う埋葬の早さに関係しているのでしょう。死者が男性の場合は親族の男性が、女性の場合は女性が沐浴させ、白い綿の服を着せ、むしろに包みます。部屋にはもくもくと大量のお香が焚かれます。そして男性たちが部屋からなきがらを運びだし、葬列をなして歩いて墓地に向かいます。小さな子どもや女性は家にとどまります。家から亡がらが運び出されるとき、人びとの泣き声はもっとも大きくなりました。

 墓地は町はずれにあります。葬列はかならず、町で唯一のモスクの前を通過します。そこは広場になっていて、町のほぼ中央に位置します。このモスクは世界最大の泥の建築物で、縦横それぞれ約60メートル、高さは20メートルあります。広場では、毎週月曜日に1000以上の露店が軒を連ねる定期市が開かれます。ふだんは子どもたちのサッカー場、奥さんたちのおしゃべりの場、お年寄りたちがお茶や粉煙草をのむ場であり、木陰ではいつもコーラン学校が開かれています。人びとに開かれた共有の場です。葬列は必ずこの広場を通るのです。

 モスク前に着くと、葬列の人びとはアラビア語で「ジャナーザ」と呼ばれる葬式のための特別な礼拝をします。ジェンネは小さな町です。人びとはこのときに、どこの誰が亡くなったのかを知ることができます。その場で涙をこらえながらジャナーザに駆け加わる人もいます。その姿は見ていて胸がしめつけられますが、「悼む」という気持ちの美しさを、この率直で静かなふるまいの中にみました。ふだんにぎやかな広場も、このときばかりは礼拝の人びとの衣擦れの音だけが響きます。

 埋葬の穴を掘るのは、おもに泥大工の役割です。彼らは家を建てる技術だけでなく、建築作業の安全のため、建てた家を悪霊などから守るため、まじないをおこなう魔術的な力をもつと言われています。ジェンネの家々は泥でできているため、毎年やってくる激しい雨季の前にはしっくい塗りのメンテナンスが欠かせません。家を建てた大工自身、もしくはその息子や弟子の仕事です。大工は人びとの生活に欠かせない泥を扱うプロであり、土の、泥の主でもあるのです。

 その泥大工が、亡くなった人を埋めるための穴を掘ります。なきがらはそこにむしろごと埋葬されます。頭はかならず、キブラ(メッカの方角)に向けられます。墓標はありません。墓地にはぽつぽつと草木が生え、放牧の牛が入ってきて荒らさないよう木の枝で柵がつくられ、きっと家族が目印に置いていったであろう欠けた素焼きの壺が、無造作に転がっています。日当たりがよく、いくら防いでも、いつの間にか羊やロバが入ってのんびり戯れている。ごくごく質素ですが、私はとてもすてきな墓地だと思います。

■「死はアッラーの手のなかに」と受容

 ジェンネに2年間いる間に、おなじ長屋に住む家族同然の人びとや友人など5人が亡くなりました。どなたも、私と同年代から40代くらいの若い人たちです。マリの平均寿命や医療事情を考えると、そう驚くほどの数ではないのかもしれません。とはいっても、80歳、90歳まで元気な人はたくさんいます。残された子どもや子どもに先立たれた親御さんを見るにつけ、なぜこんな若い彼らが、とやるせない気持ちになることもありました。

 同じ長屋の大好きだった女性が亡くなった3日後、彼女のお母さんがゴザを返しに来てくれました。まだ60歳くらいのお母さんは、6人産んだ子どものうちこれで4人を亡くしたことになります。「なぜこんなに早く……」と言う私に、気丈にこう答えてくれました。

 「娘にお薬代を分けてくれてありがとね。あの子もあなたのことが大好きだった。あなたのやさしい行いをアッラーはきっと見てくださっているよ。娘が亡くなって悲しいけれど、これもアッラーのおぼしめし。私たちの死はアッラーの手のなかにある。あの子はとても正しい子だったから、アッラーがあちらで、よくとりなしてくださるでしょう。泣かないで」

 ドゴンのホゴンの埋葬も、ジェンネの葬列も、形式が定まっていて質素簡潔なものです。とはいえ、また、だからこそ、集まる人びとが悼む気持ちを静かに共有できる、よい別れでありお見送りなのではないかと思います。

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いとう・みく 1980年、福岡生まれ。
大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程在籍。2004年より2年半、マリ共和国にて民族学のフィールド調査を行っている。


「再生」第76号(2010年3月)

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