海外の葬送事情

インド

古来、多様な生と死の相が共存
------ 基本に大地や大河との一体感


                      我妻和男(麗澤大学教授)  

 インドは、民族、言語、宗教、文化、思惟方法、生活方法など多様で併存している。したがって死生観も宗教宗派によって異なっている。そこで人生の最終末の過ごし方、覚悟も、また死に至ってからの死体の扱い方も多様である。

 インドで生まれた宗教とインドの外で生まれた宗教と大別される。イスラム教徒は国際的に土葬である。それに基づいてインドのイスラム教徒も日本のイスラム教徒さえ土葬を守っている。キリスト教徒のうちカトリック教徒はインドでも土葬を守り、インドのプロテスタントは火葬を続けている。

 では、インドで生まれた宗教の場合はどうであろうか。これにはインドの広大な大地と大河の影響で、大地の思想、大河の思想とも言うべきで、天を信じながら基本的に大地との一体感、大河との一体感をもって、日本人の感覚からみて、インドのヒンドゥー教徒の最終末観や死体観は理解され難いところがあるかも知れない。しかし、あらゆる国の慣習をお互い認めあうことが現代世界の共存に欠くべからざるものである。

タゴールの父、祖母の死で簡素な生き方に

 ここで有名なエピソードを述べよう。アジアで最初にノーベル文学賞を受賞した、ロビンドロナト・タゴール(1861-1941)は、富裕で、ベンガルの経済的、文化的中心のタゴール家に属していた。それは、タゴールの父デベンドロナト・タゴール(1817―1905)とその祖母の死の物語である。

 祖母は、毎朝早くガンジス河で沐浴し、時には太陽礼拝をする信仰深い女性であった。夜通し讃歌を歌った。大家族の中心にいて、皆の世話をし続けた。また際立って美しかった。特に孫のデベンドロナトは可愛がってもらっていた。

 ヒンドゥー教徒の中には、死が迫って来ると、ガンジス河を初め聖河の河畔に瀕死の状態で辿り着き、そこで死を迎え、遺骨を大河に流してもらいたいというのが望みであり、理想であるとしていた。現在でもそのような死人がワラナシーのガンジス河畔で死を待っている姿が見られる。このことは、その人々の死生観に属するもので、自ら望んで、自らの死の尊厳を守ろうとする。それはそれとして首肯けるものであるが、もし内心望まないのに河畔に行かざるを得ないとした場合に問題が起こる。

 さて、デベンドロナトとその祖母のことにたち帰ると、西暦1835年、医師がタゴール家に来て、病人は死が迫っていて、習慣に従ってもう家に置いておけないと言った。そこで皆は祖母をコルカタのガンジス河の河畔に連れていくために戸外に運び出した。祖母はもっと生きていたくて、ガンジス河畔に行くことを嫌がった。しかし皆は祖母をガンジス河畔の瓦葺きの小屋に寝かせた。タゴール家の人々は家に帰っていった。しかし、祖母と孫のデベンドロナトの間の愛情の絆が強かったので、デベンドロナトは祖母と一緒に寝た。ちょうどその時祖母の息子でデベンドロナトの父のダルカナト・タゴール(1794―1846)はベンガルのプリンスと言われ進取の気象をもった実力者であったが、この時は旅をしていた。祖母は「息子のダルカナトがいれば、私が嫌がるのに外に連れ出したりさせなかったのに」と嘆いた。

 結局祖母は2日間だけ生きていた。祖母の死の前夜、デベンドロナドは、この小屋の近くのニムトラのガト(沐浴場及び火葬場となる河岸の聖なる石段)に粗末なむしろを敷いて座っていた。皆祖母のために神の名を称え続けた。月が上がった。デベンドロナトは歓喜と捨離の不思議な神秘的な気持ちに圧倒された。暁に祖母を見に行くと祖母は最後の呼吸をしていた。皆はガンジス河の水を祖母の口にひたしていた 「ガンジス河よ、ナラヨン神よ、ブラフマン神よ」と讃え続けた。 祖母は最後の息を引きとった。デベンドロナトがそば近く寄ると、両手を胸に置いて、人差し指を上方に向け、その指をぐるぐるまわして「神よ」と呼びつつ、最後の息をひきとった(デベンドロナトの自著『自伝』(アットチョリト)参照)。

 デベンドロナトは、この神秘的な体験をきっかけに贅沢な貴公子から、非偶像非属性の宇宙の唯一存在ブラフマンを祈念する簡素な生活を一生送るようになった。この祖母の死の件については、考えるべき問題が色々ある。一面から見ると、自ら望まないのに残酷な姥捨て山ではないか、他の一面では死を身近に感じるヒンドゥー教の伝統的習慣に強く影響されたものではないかと考えられる。

死後肉体と霊魂は完全に分離すると信じる

 インドで生まれたヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、シーク教は何れも、死体を火葬に附している。昔は火葬に附する際、閉ざされた火葬場でなく、人の目につく池の岸や河の岸辺の石段や開けた野原で、薪や石炭を燃やして行った。火葬した遺骨や遺灰は河川、池の中に沈めたり流したりし、曠野ではそれらをそのまま置いたり、散らばせたりする。一般日本人から見ると、遺骨の尊厳が損なわれると思われるかもしれない。村ではヒンドゥー教徒が死を迎える時は、普通は近しい人が心配げに身近に座り、祈りの言葉を唱える。できればガンジス河の水を聖なる水として、ゴットという聖なる壷に入れ、末期の水として飲む。亡くなると遺体を担架に乗せて、門を出る。野辺の送りに行く親しい男性のみの行列。女性は行列についていくことが禁止されている。したがって未亡人は門の前で悲しみに打ちひしがれて号泣して、担架の上の夫の遺体に向かって最後のお別れを惜しむ。この悲しみの葬の列は野辺の火葬場に行く。普通は骨壷に遺灰や遺骨を収めたりしない。また家に位牌をつくったりしない。基本的に肉体と霊魂を分けて考える。死後、肉体と霊魂は完全に分離されると信じる。霊魂は天に上るか、輪廻の運命によって次の世に何らかの生物や人間に生まれかわるか、解脱して再生しないか、肉体は物質として前述のように様々の散骨の方法によって、様々の散骨の状態にとどまる。

 日本人のように遺骨、遺灰、遺髪にそれほど愛着を感じない。葬送の自由とは、インドの場合、インドで生まれた宗教の場合、散骨の自由を意味する。輪廻をするにしろ、しないにしろ、インドの宗教は霊魂の解脱を目的としている。宗教だけでなく、インドの哲学、古来の唯物論でさえ、魂の解脱を口にしている。ジャイナ教、シーク教、仏教何れも同じである。

 それらの宗教は、宗教信条も、宗教哲学も、信仰生活も、それぞれ多様である。それでもこの死後の散骨の件は一致している。肉体は母なる大地と一つになる。死に親しむように、死が必然であることを悟って、死を直視する、死に親しむ、生死に差別をつけない。

 村を進んでいく担架の上の遺体は、足がにょきっと出て見える。また多くの場合、顔まで見える。私がシャンティニケトンのタゴール国際大学で教えていた時、タゴール邸で、タゴールの長男夫人プロティマ・デビが亡くなった時のこと、タゴール邸の一室のベッドに遺体がそのまま安置されていた。タゴール学園の教授、学生、更に小学生まで、お別れに訪れた。小さい子たちも一人一人花束を持ち、遺体の顔に深く手を合わせ冥福を祈っていた。私も、真摯で大きな仕事をしたプロティマ・デビの死の尊厳を、彼女の遺体を見ながら、厳粛な気持ちで沁々感じた。

 日本では死が近づくと自宅で死を迎えることが困難となり、医学の進歩のお蔭で延命治療が行われ、一面良いことであるが、末期には親しい人も近づけない閉鎖状態になり、また最終末期に会えず、死に直面することが困難なことがある。現在は、生からも死からも疎外されているという感さえ起こって来る。

日本人の遺体収集熱理解できないインド人

 第2次世界大戦の時、日印軍がインドのインパールに進攻し、英軍と戦い、悲惨な敗北を喫する。日印軍に多数の戦死者を生んだ。激戦の跡には、長年遺骨が散乱したままになっていた。日本人は、肉体と霊魂が死後永えに分離するというより、遺骨、遺灰、遺髪などに魂が死後もなお宿っていると考え、従って墓や骨壷や骨箱に魂が宿ると信じ、更に仏壇や位牌にもその深い想いを寄せる。更に遺品にも特別な想いがある。

 さて、インパールにはイギリス人、インド人、日本人、ネパール人など複数の国の戦死者の遺骨が散乱しているが、そこに今では不戦の平和の碑が立っている。しかし、散乱する日本人の遺骨に宿るのは、遠く故郷を偲んで、帰郷の念に燃える魂であると信じていた。日本人はそう考えて、異国に迷う霊魂を日本に帰還させて鎮魂してもらいたいというので、遺骨収集団がインパールに出掛けようとした。しかし、インド人は前述の如く基本的に散骨風習があるので、日本人の遺骨収集熱を十二分に理解できず、やや誤解して、収集が始まるのに時間がかかった。

 昨今ではインドで、都会では野辺の送りでなく、火葬場で火葬が行われる。遺骨の一部を僅か家に持って帰る人もいない。名のある数人の人の遺灰がヘリコプターまたは飛行機から散布される例がある。このように現在では色々なヴァリエーションがあるが、全体として火葬後の散骨が主流である。海や河川や池に散骨の水葬が行われるのである。

 さて、イランから追われて、インドで亡命の場を見出したパーシー教徒は、人が亡くなるとその遺体を山の頂に置き、鷹にそれを食べさせる鳥葬の習慣を持っている。その場合も、魂と肉体を分離させて考えている。

 インドではこのように肉体を軽視、無視しているように見えるが、生きている時、例えばヒンドゥー教の密教(タントラ)でも、仏教の密教でも身体学が発達し、肉体を重んじ、小宇宙を見る。ヒンドゥー教のヨーガも、肉体をよすがに、生命と精神と魂の精進と統一に専心する。それは有神論のヨーガでも、無神論のヨーガでも同じである。一般のインドの人々は、死後肉体が土に化することを淋しく思ったが、抵抗感が少ない。インドでは、一元論、二元論論争が古来続いているが、何れの場合も自然のことを深く心において自然観を築いて来ている。

 死して肉体が自然に帰ってこそ、そこから離れた霊魂は鎮魂するというインド人の信条である。

 インドでは散骨が違法ではない。鳥葬が違法ではない。火葬が違法ではない。コミュニティーの伝統的死生観を受け継いでいる。

人々の終末観、死生観、遺体処理を認め合おう

 以前は、日本人の眼から見て、時代遅れとして一笑に附する傾向があったが、何よりも他の国の伝統的宗教、生活方法、思惟方法等を批判的観点をもちながらも先ず尊重すべきである。というのも時代の推移に従って日本においても死生観の多様性が認められるようになった。日本の大部分の人々の人生の終末観、死生観、死後の遺体処理等は、そのまま認めるべきであろう。しかし、葬送の自由を自らすすめる人々にはそれを認めるべきであろう。同じように他国の死生観も尊重すべきである。インドの良い所は、何かにつけて多様性を尊重することである。従ってインドでは古来多様な生と死の相が文学に、哲学に、芸術に、宗教にあらわれている。すべて共存している。

 近頃の日本の人は死者の顔を見るのが苦手である。私は中学1年の時、東京下町の中心本所区の都立の中学校の時東京大空襲にあった。本所区で4人に1人死に、下町全体で約10万人死に、我が学校内で100人以上死に、苦しんで焼け死んだ様々な人々の顔を無数見た。そのため現在でも亡くなった人を見るとあの頃の死者の顔が二重写しになる。

 インドの人々は、死者の顔を従容として見ることができる。つまり内面に受けとることができるのではないかと思う。 。

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 あづま・かずお(吾妻和男)  タゴール及びベンガル語、ベンガル文化研究家。日印の文化交流を目的にした日印タゴール協会事務局長。東大大学院でドイツ文学、インド哲学の専門課程を修了。タゴール国際大学客員教授、筑波大教授などを経て現職。インドに40回以上の渡航歴があり、タゴール全作品集の翻訳などで知られる。著書に『人類の知的遺産タゴール』(講談社)など

「再生」第60号(2006年3月)

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