海外の葬送事情

キューバ

生前の居住地で決まる葬儀場、墓地
  社会主義下、宗教も現世救済を指向

             レオニード・ロペス=オソリオ(キューバ出身・大阪在住)
             田沼幸子(人類学専攻・大阪大学特任研究員)    

 キューバは人口1100万人強の、カリブ海に浮かぶ島国です。フィデル・カストロによるキューバ革命が成功し、1961年に社会主義宣言がなされました。革命前はカソリック教徒がマジョリティでしたが、宗教は革命的ではないとして批判を受け、自由が認められるようになった現在も自己を無宗教とする人が多くを占めています。個人の死生観および葬送のあり方にも多くの影響を及ぼしています。国によってすべての人が平等に、格安で簡素な葬送をおこなえるようになった代わりに、墓地や葬儀場はあまり自由に選べないものとなりました。ここでは、自分の母の葬儀を経験したキューバ人であるレオニード・ロペス=オソリオの覚書と田沼幸子の背景説明によって、キューバの現在の葬送がどのようなものか、一端をご紹介できればと思います。



 母は僕が何かの問題で苦しんでいると、よくこう言ったものだ。
 「落ち着いて。生きていてなんとかできないのは死人だけなのよ」

 母はいつも僕が世界のどこであれ、幸せなところで生きることを望んでくれたが、彼女は自分が永遠の眠りにつく場所を選ぶことはできなかった。僕らの家族は墓地の一角を相続する幸運には恵まれなかった。すべての民が利用できるようにと、そういった土地は革命によって国営化され、もう売られていないのだ。そしていま、埋葬される地を見ず知らずの人と分かち合うことになった。でも母は革命が決めたことすべてに賛成してきたから、死が社会主義化されたことをも確認できて満足しているのかもしれない。

 母の死からもう2年になる。時間が経ったこと、そして遠くに住んでいること――35歳になってから新しく、大きく異なる生活のあり方に馴染まなければならなかったことから、新しい変化に対応するために、記憶の幾分かは犠牲になって明晰さを失っているかもしれない。混乱し、ぼやけているかもしれないけれど、僕はそのときのことをこう思い出す。

葬議場は昔のブルジョワ階級の家

 僕の家には他のキューバ人の多くと同様、電話がなかった。郵便システムも効率的とはいえない。そういうわけで、母の死を知ったのは何時間も経ってからだ。ドアの下から友人が走り書きを置いていった。「君のお母さんが亡くなった。みんな葬儀場で待っている」と書かれていた。

 追悼のためにどこに集まるべきなのかは、分かっていた。すべてのキューバ人は、生前、どこに住んでいたかによって、亡くなったらどの葬儀場で一晩過ごすかが定められている。葬儀場に着いたとき、初めて母が革命の大衆のなかの見分けのつかない誰かではなくなったことに気づいた。いまや彼女の名前は黒いフラシ天(ビロードの一種)の上に貼られた銀メッキのアルファベットで刻まれ、どの部屋で通夜がなされるのかを世に知らしめていた。

 その部屋で、遺体は葬儀場の定めた木の棺に納められている。棺はその場所を知らせたのと同じ黒いフラシ天で覆われ、同じく銀メッキの取手がついている。習慣で、一晩中、通夜がおこなわれる。故人の知り合いが訪れ、棺に近づき、そのガラス越しに前もって家族が装いを整えた遺体と顔を眺め、最後のお別れを告げる。親族と近しい友人達は、葬儀場の花屋で彼らが金を出し合って用意した花輪の、すでにしなびた花の香りに囲まれて朝を迎える。

 一晩中、これまた葬儀場にあるカフェテリアで、とても安いが質もひどく悪いコーヒーとパンを手に話し続ける。つまりカフェテリアは他の故人の家族との社交の場でもあり、時には、関係のない人が、食べるためだけにやってくることもある。僕もよくやったように。

 母の葬儀場はビボラ・パークという地区の大きな家だった。この地区は1950年代、つまりキューバ革命の10年ほど前から新興ブルジョア階級の人々が住宅を建てて住み始めていた場所だ。この人たちが革命を逃れて出国していったあと、他の大半の家よりは、清潔で、美しく保存されていた。生きている間には決して手の届かなかった威厳と静けさにたどり着くことができたようだった。

近所の人たち、一晩中マナーを点検

 もちろん、葬儀に近所の人たちの存在は欠かせない。彼らは十戒よりも聖なるマナーを守らせるために、一晩中、何をし何をいうべきか、僕をしっかり見張り助言を与えた。度を超した笑い声、家族の嘆きが足りないこと、儀式への遅刻や欠席、あるいは死者への接し方に関する正しいやり方をきちんと尊重しない人々に対して、彼らは真剣さと厳しさを示した。彼らの目からすると、僕はあるべき規律に従っていなかったので、モラルを守るという役割を遂行する喜びと威厳を楽しむことができただろう。

 その日に聞いた言葉のなかで、一番、率直で心からのものに聞こえたのは、ほとんど姉妹のようだった母の友人が、ただひとつ口にした言葉だ。多くの人が言う言葉だが、彼女の口から発せられると安らぎとなるものだった。「いまこそ安らかにお休みなさい」。これが皮肉で、それで痛みが薄められるならいいのに、僕の言葉が単なるアイロニーだったらいいのにと思うが、実際、僕は、母が休めることを嬉しく思うほどだった。未来のために革命を築くという仕事に没頭していたために、彼女は最後までレンガを積み続けることをやめなかったのだ。

 これはもちろん、悲しいアイロニーをこめて何十年もキューバ人が言ってきた言葉だが、キューバ人がメルセデス・ベンツに乗る機会は死が訪れたときだけだ。すべての葬儀場に割り当てられたメルセデス・ベンツは、夜が明けると、墓地に移送するために母を待っていた。運転手は、遺体を早く車に移せと僕をせかした。すでに時間がおしているし、その日は運ばなければならない遺体がたくさんあるのだそうだ。

墓地で共産党員が追悼のあいさつ

 その後、墓地に行き、共産党の党員が、母がいかに偉大な革命家であり党員であったかを説くのを聞いた。きっと他のキューバ人すべてが、無名の墓穴へ埋葬されるあいだに読まれるよう特許がとられているに違いない。我々は塵から生まれ、塵に還ると聖書にある。大衆から生まれ、大衆に還る、とキューバでは言うことができるかもしれない。お母さん、あなたは人々の間の無名の存在でしかなく、革命の機械の部品の一つであることを悔やむ様子は一度も見せなかった。

 だとしたら、葬儀場の前に名前が銀メッキで貼り出されたのも、葬儀場が豪華な場所だったことも、棺も、メルセデスも気に入らず、逆に、無名のままであり続け、人のために尽くすことによって、死からよみがえる方法を見つけ出したのかもしれない。

 でも今度こそ、この機会をとらえて、安らかにお休み、ママ。

                     (レオニード・ロペス)


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移民社会、個人主義的価値観を助長
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 1492年にコロンブスがキューバを「発見」したとき、「人間の目が見た最も美しい景色」と言ったという。平和的な先住民の住むその島は、直にスペインによって植民地化され、侵入者の酷使と病気のため、先住民はほぼ絶滅した。共通語はスペイン語、主な宗教はカソリックとなったが、ラテン語でなされるミサを理解できる者は限られた。金銀のような富を産出しないキューバでの宣教は熱心なものではなかったこともあり、カソリックそのものが他のラテンアメリカ社会のように強く根付いたとは言えない。

 労働力としてアフリカから奴隷が連れてこられると、彼らの宗教とカソリックとが混ざり合ったサンテリアという民間信仰も生まれ、現世救済指向で個人主義的な死生観を育んだ。20世紀初頭はスペイン、中国、中東などから多くの人々が移入しては去っていく移民社会であったこと、主要作物の砂糖価格の上昇下落によって、社会階層の変動が短期間に起こりうることも、個人主義的な価値観を助長することになった。1950年代のハバナを調査して書かれた民族誌には「私は私なりのやり方でカソリックなの(soy cat?lica a mi manera)」という言葉がよくある立場表明として書かれている。この言い回しは、現在のキューバでもカソリックの「信者」であるという人によってよく使われる。

 罪や来世といった観念は、この時期から希薄だったとも言える。例えば他のカソリック諸国では厳しく罪とされてきた中絶は、合法ではなかったがすでに頻繁に行われていた。そしてそれを行った彼女たちが教会に行って罪を告解するときも、中絶には言及せず、近所の人の悪口を言ったことを懺悔していたという。

 男女が交際する際は、男性が女性の父親に結婚の意思があることを告げ、どのように彼女を養うか、その仕事に就くための準備をしているかどうかなどの質問に答え、許しを得る必要があった。許しを得たとしても女性の純潔を守るため、結婚までは2人きりで会うことは許されず、必ず付き添い人がいなければならなかった。早く結婚したかった場合は、「駆け落ち」することが一般的であった。しばらく監視の目を離れれば、2人は当然のごとく肉体関係を持ってしまったものと見なされ、今度は娘の「名誉」のために、「結婚」を父親の方から迫るという結果になったのである。多くの場合、結婚(casar)とは家(casa)に一緒に住み始めることを意味していた。
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土葬の2年後、再埋葬される遺体
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 しかし、生と死の場においてはカソリックのやり方に従うのが慣習だったようだ。生まれた子には洗礼を受けさせ、亡くなった人はカソリックのやり方で弔う。特に独特な点がないためか、筆者が専門とする人類学の著作においても葬送に関する記述はほとんど見たことがない。レオニードによれば、彼の父母の出身地である東部の地方オルギンでは、まず自宅で一晩中、遺体が安置されるなか親族や知人らが訪問し、翌日には教会でミサが行われた後、土葬されたという。そして2年が経つと家族の立ち会いのもとで腐敗した遺体をとりだし、小さな壷に入れて埋葬しなおす。こうすることによって、家族の持つ小さな墓地の区画にすべての死者を埋葬することが可能になるのだ。火葬は見聞したことがないという。

 キューバで最も有名な墓地は、コロン墓地だろう。首都ハバナの中心にほど近いそこには、革命前の富裕層たちが思い思いの形でつくらせた大理石の墓石が並び、いまや一大観光地となっている。しかし、いまでもそこには新しい死者が壷に埋葬しなおされているのだ。他にもユダヤ人墓地、中国人墓地など、20世紀への変わり目前後に移民してきた人々がつくった墓地も残されている。だが現在一般的なのは、レオニードが書くように、住む地域によって決まった葬儀場と墓地への埋葬であろう。

 1959年のキューバ革命を受け、カソリックの神父による説教は、生前の革命的態度を賞賛する言葉にとって代わった。この世にユートピアを築こうという社会主義の理想のもと、現世主義的指向はいっそう強まり、死後の楽園を求める傾向はいっそう弱まったと言ってよい。ソ連の崩壊による経済危機以降、キューバは社会主義の原則を打ち破る政策をとり続けてきた。信教の許可や外貨所持の合法化は、それまでの政治的かつ道徳的指針を大きく転換するものであり、人々に大きな衝撃を与えた。とはいえ、信教の自由は来世の救済というより現世救済―例えば、教会は信者への独自ルートによる薬の配布や他では認められていない自主出版物の販売を行っている??の方法として人々に受けとめられているように見える。「商売繁盛」「健康」「外国への出国」などといった願いごとの成就のために入信する者があとを断たないサンテリアはいわずもがなである。
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当面の救いは葬送には不要な金策
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 フィデル・カストロが指導者の地位を離れ、アメリカのオバマ政権発足による両国の歩み寄りによってキューバ政権の反米・反資本主義的態度も変わりつつあるが、死に関しては何か変わるのだろうか。筆者が思うのは、いまも回復したとは言えない経済危機のなか今日の糧を得て生きるのに精一杯な人々は、当面、葬送のあり方について思いを馳せることはないだろうということだ。そんななか、少なくとも「葬式を出してもらう」ための金策に思い悩まずに済むことだけが、救いとも言える。その時が来るまで彼らは、キューバであろうと、まだ見ぬ遠い土地であろうと、よりよく生きることに全精力を傾け続けるであろう。

                       (田沼幸子)

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レオニード・ロペス 1974年3月ハバナ市生まれ。
薬剤師、舞台俳優、「有機農業」者、自主映画監督、世界遺産である旧ハバナ市街の修復技師など様々な職を経て昨年末より日本在住。現在、大阪YWCA専門学校日本語学科本科学生。

たぬま・さちこ 1972年5月秋田県生まれ。
大阪大学大学院人間科学博士課程在籍時に人類学的研究のため、1999年から2004年の間の延べ26ヶ月間、ハバナにて現地調査を行う。2007年より当時のキューバ人の知人たちを出国先へ追うドキュメンタリーを製作中。2009年レオニードと結婚。



「再生」第74号(2009年3月)

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