ブラジル
多様性に富む自然、民族と文化遺灰を粥に混ぜてすする人々も
岡村 淳(記録映像作家=在ブラジル)
私は日本からテレビのドキュメンタリー番組の取材のためにブラジルに何度も通い続け、ついにはブラジル移民になってしまった。私を虜にしたのは、この国の自然と風土、民族と文化の多様性だ。
ブラジルの葬送文化も実に多様である。先史時代から概観してみよう。ブラジル各地から先住民・インディオが遺体の埋葬に使用していた甕棺が出土している。なかでも傑出しているのが、アマゾンの河口部に浮かぶ日本の九州ほどの大きさのあるマラジョー島から発見されるマラジョー土器だ。日本の縄文土偶をほうふつさせる人体を模した等身大の土器に、彩色と模様を施してある。マラジョー土器はアートとしても高く評価されているが、遺体を収める甕棺だったことはあまり知られていない。
マラジョー文化の末裔たちはヨーロッパ人の到来と前後して雲散してしまったが、今日までサバイバルを続けたインディオたちの葬送は、これまた各部族ごとにバラエティーに富んでいる。
映像に残ることを嫌うヤノマモ族
とりわけユニークなのが、アマゾン北部・ブラジルとベネズエラにまたがる山岳地帯の居住区に暮らすヤノマモ族だ。およそ四半世紀前、私の取材班はブラジルのインディオ保護局の許可を得て、ヤノマモの村にホームステイをしながら取材をしたことがある。この時、インディオ保護官からインディオたちに撮影したビデオの映像を見せないよう、強く釘を刺されたものだ。ヤノマモたちにとって自分たちのイメージが他に残ることは許されないことで、死者のイメージはなおさらのことだという。私の滞在中は幸いに村人の不幸に遭うことはなかったが、ヤノマモの葬送は人類学者たちや私の先輩ディレクターによって記録されている。
ヤノマモは死者が出ると、村の広場で遺体を火葬にする。焼け残った骨は砕いて粉にして、木の実で作った容器の中に保存しておく。彼らの主食であるマンジョーカ(キャッサバ)芋やバナナの収穫期が来ると、芋やバナナの粥を作ってこの中に取っておいた骨粉を混ぜるのだ。これは収穫と葬送を兼ねた祭りのご馳走とされる。村人は近隣の村人も招き、共にこの粥をすすりながら故人を偲んで号泣し合う。こうして死者は跡形も墓も残さず、生者の中に取り込まれていくのだ。
暑い国、翌日までには埋葬
今日のブラジル全体では、カトリックに変わってプロテスタントの諸派の信者が徐々に増えているものの、依然ブラジルは世界最大のカトリック人口を抱える国であり、両者を合わせたクリスチャンが人口の9割近くを占めている。ブラジル人に日本の火葬の話をすると「体を焼いてしまったら、『復活』の時に魂はどこに戻るんだい?」と驚かれることがある。そんな文化がベースにあるため、腐敗の早い熱帯と亜熱帯が国土の大半を占める国でありながら、土葬が一般的だ。
午前中に死亡した場合、通夜を行なわずにその日のうちに埋葬されることもしばしばだ。遅くとも死亡の翌日までには埋葬されるのが普通で、その場合、棺に納められた遺体は墓地内の施設の一室に安置され、関係者で通夜を行なうのが一般的だ。日本の23倍もの国土を有し、交通網と通信網の発達は日本に及ぶべくもないブラジルである。遠方に住む家族・知人に連絡がつかなかった、知らせを受けても埋葬に間に合わなかったといった話は、こちらの葬儀に付きものである。
私もブラジル暮らしが20年以上になり、少なからぬ人たちの葬儀に立ち会ってきた。日本の葬儀との顕著な違いは、まず通夜や葬儀に伴なう飲食がないことだ。親しい人の通夜には酒が不可欠、という文化を担う古参の日本人移民は自らアルコールの小瓶を持参して、周囲を気にしながら仲間とチビチビやることになる。もうひとつは、香典の習慣がないことだ。故人や喪主が日本人一世で、こちらも日本人の場合は香典を渡すのが一般的だが、一般ブラジル人の葬儀の際、金銭を渡すことはかえって失礼になりかねない。
ブラジル人の葬儀で大切なことは、葬送に出席して遺族にお悔やみを述べて抱きしめ、哀悼の意を表することだ。この際、衣装は問題にならない。遺族がGパンばきのこともしばしば。こちらの墓地で背広や黒衣の集団がいたら、日本人の葬式だと思っていいほどだ。
埋葬の形態は、大きくふたつに分けられる。新たに地面を掘った墓穴に、棺を納めて埋める、いわば「埋葬型」。もうひとつは薬問屋の箪笥型の、地上ないし地下の施設に棺を納める「収納型」。家族が大きくなり、今後も同じ墓地に納められる人を想定する場合は、複数の棺を納められる箪笥型の施設を購入した墓地にあらかじめ作っておくことも行なわれる。
庶民レベルでは、急に死者がでた場合、墓地を買う経済的余裕がなく、知人が生前に買っておいた墓に埋葬させてもらう、あるいは墓の箪笥の「一段」に一時的に収納させてもらう、といった日本の落語のネタになりそうな話も珍しくはない。他人の遺体を我が家の墓地に善意から預かって、そのまま預け主にも亡くなられてしまったり、失踪されてしまったり、といった笑えない話もいくつか耳にしている。
熱帯林に盗掘跡のある日本人の墓
なんでもあり、のお国柄である。例えば、墓荒らし。棺を掘り出して、指輪や金歯などを抜き取っていく。
20年ほど前、こんな不気味な事件がこちらの新聞に報道された。さる地方都市で、日系女性が地元の博物館を見に行った。すると「インディオのミイラ」と称して、どう見ても最近なくなって埋葬したはずの自分の祖母としか考えられない遺体が展示されていた。女性が抗議をしたことまで記事には触れていたが、続報を見かけなかったので、その後の経緯と真相はわからない。
私自身、墓荒らしの盗掘の跡を目の当たりにしたことがある。アマゾン奥地の、第二次大戦前の日本人入植地の墓地。ブラジルが連合国側として参戦したことから日本人住民は収容所に送られてしまい、後に日本人墓地は熱帯林に埋もれてしまった。戦後、同胞の墓が場所もわからなくなってしまったことに心を痛めた日本からの篤志家が、積年の執念で墓地跡を探し当てて、ふたたび森を拓いた。すると地元の人間が日本人の墓にはお宝が副葬されているに違いないと思い、徹底的な墓暴きを行なった。石製の立派な墓石のあるものほどひどく掘り返され、木製の質素な墓標のみの墓は盗掘を免れていた。
ブラジルの墓地の地上部の形態は、ふた通りある。より一般的なものは、それぞれの墓で大きさも形も異なる十人十色型。もうひとつは一面の芝生の地表に故人の氏名のプレートを置くのみの庭園型。日本からの墓参客が今も絶えないF1レーサー、アイルトン・セナの墓は後者である。彼の墓だけは常に花束で覆われているので、一面の芝生の中からもすぐに見つけ出せる。
サンパウロ市の繁華街に囲まれた広大なアラサ墓地 |
前者の墓地で、豪華さで有名なのがサンパウロ市のアラサ墓地だ。この墓地は、市内観光のコースに組み込まれているほどだ。大きな墓は低所得者の住宅以上の広さで、地上部の建造部は田舎のチャペル以上の規模を持つ。著名人の墓に著名な彫刻家の彫像が据えられ、さながら亜熱帯の彫刻の森である。損傷の進む彫像が州立の美術館に収められ、代わりにブロンズのレプリカが飾られているものもある。20世紀の葬送アートの野外美術館といったところか。
20世紀の後半に火葬場が誕生
ブラジルでも20世紀後半になって火葬場が誕生した。1974年にオープンしたサンパウロ市営ビラ・アルピーノ火葬場は、ラテンアメリカの火葬場の草分けであり、敷地面積は世界最大級の規模という。
現在、1日あたりの火葬件数は約10件。人口1000万人以上を抱えるサンパウロ市としては、まだまだかなり低い数字といえるだろう。今回、調べてみて驚いたのだが、焼却後の灰を遺族の多くは火葬場内の広大な庭園に撒いているという。故人の生前の希望により、海に撒くケースも少なくないとのこと。私のこれまで関わった火葬のケースは、故人が日本人の場合ばかりで、土葬に対する忌避と、遺骨を祖国に持ち帰ることも想定しての火葬、とうかがえた。
ビラ・アルピーノ火葬場にはセレモニーサロンがある。すり鉢型の中央にしつらえた壇に棺が置かれ、最後の別れのひと時(10―15分)を過ごす。神父や牧師、僧侶などを招いたり、演奏や合唱で閉めるなど、各人各様だ。時間が来ると、エレベーター式になっている壇が安置された棺と共に地下へと沈んでいき、お開きとなる。
遺族は隣接したブラジル式バーベキューレストランで遺体の焼き上がりを待つ、というようなことはない。容器に入れられた灰を受け取ることができるのは、棺を渡してから5日以降を経てからである。30日、経っても引き取りがないと、火葬場内の庭園に「丁寧に」散骨されるという。
「モニュメントが必要?」とインディオ
私が親しくしているインディオのオピニオン・リーダーの言葉を思い出す。「文明人はどうしてモニュメントを作って残したがるのだろう。我々インディオは、部族という大河の流れのなかにいるようなものだ。自分が今、存在しているということ自体が大切なモニュメントであるのに、それ以上、なんのモニュメントが必要なのだろう?」
ブラジルの多様な文化は、葬儀というものの初源から未来までをも垣間見せてくれているように思う。
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おかむら・じゅん(岡村淳) 1958年東京生まれ。
日本映像記録センターの番組ディレクターとして「すばらしい世界旅行」(日本テレビ)などを担当。87年、フリーとなり、ブラジルに移住。以降、小型ビデオカメラを用いた単独取材によるドキュメンタリー作品の自主制作・自主上映活動を続けている。主なテーマは南米の日本人移民、および社会・環境問題。
公式サイト=「岡村淳のオフレコ日記」 http://www.100nen.com.br/ja/okajun
「再生」第68号(2008年3月)