海外の葬送事情

アフガニスタン

荒野にはためく緑の聖なる旗 社会に色濃く残る「殉教思想」

               安井浩美(フォトグラファー、アフガニスタン在住)
 

 2001年3月、旧政権タリバンの蛮行によりバーミヤンの大仏が破壊されたことで、アフガニスタンは世界的に有名になりました。かつては仏教が栄えたこの国の国民は、現在は、ほぼ100パーセントがイスラム教徒です。破壊されたバーミヤンの大仏の前はイスラム教徒の墓地と化し、緑の聖なる旗が風になびいて埋葬者が殉教者であることを伝えています。4半世紀にわたった戦乱は、数百万人もの戦争の犠牲による殉教者を生みました。アフガン各地の墓地には、イスラム教の聖なる色、緑色の聖旗が数多く見られます。

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■聖戦の死者ばかりではない「殉教者」

 「殉教」とは? 広辞苑によると「自己の信仰する宗教のためにその身命を犠牲にすること」とあります。アフガン各地で起きている事件が日本でも報道されていると思います。一般に、戦争で犠牲になった人が殉教者と理解されていることが多いのではないでしょうか。しかし、イスラムでは、殉教者はそればかりではありません。殉教者は、?聖戦(ジハード)に出て、戦死する、?捕虜として殺害される、などだけでなく、?強盗犯や誘拐犯に殺害される、?交通事故によって死ぬといったような、自己の意思が働かない、自己の意思に背いて、神の思し召しのままに死期をむかえた場合も、イスラム教徒として唯一神「アッラー」の名のもとで誓った者は、「殉教者」として扱われます。

 欧米化の進むイスラム教国が多い中、アフガニスタンにはイスラムの殉教者思想が色濃く残っているといえるようです。例えば、7歳に満たない子ども(7歳までは、イスラムでは罪のない、汚れのない時期とされている)が殉教した場合、その両親は、死後、真っすぐに天国へ向かうと言われます。家族の中に殉教者を出した場合、1人の殉教者に対して7人の家族が死後、天国へ向かうとされます。家族を亡くした悲しみは計り知れないが、殉教者を出したことで、死後、天国へ向かう切符を手にしたと言うことは、イスラム教徒にとっては喜びでもあるのです。殉教者は、家族にとって大きな誇りです。

 殉教扱いにされないのは、?病死、?死刑による死、?心臓発作などによる突然死などのケースです。

■インド系少数派の人たちだけが火葬

 アフガニスタンに限らず、イスラム教国では火葬はタブーとされています。イスラムの歴史的過程で、そう言い伝えられてきました。しかし、アフガニスタンには、「ヒンドゥー」と呼ばれるインド系の住民たちもいます。インド系住民の人たちはイスラム教とは異なるスィーク教やヒンドゥー教徒ですので、火葬を行います。彼らは、10世紀頃からアフガニスタンに移住して来た人たちです。長年の戦争でほとんどのインド系住民たちはインドに移住しました。しかし、現在も人口の1パーセントに満たない数の少数派とはいえ、ロヤ・ジルガ(国民大会議)に特別枠の議席を持つなど、彼らはれっきとしたアフガン人です。火葬場は、カブールの西はずれにありますが、ほとんどのイスラム教徒のアフガン人は、そこへは近寄りません。

 アフガニスタンにガンジス川は流れていないので、ヒンドゥーの人たちは、火葬した灰を集めてインドのガンジス川へ流しに行きます。アフガニスタンには、火葬場以外にも、ダラムサラと呼ばれるヒンドゥーの人たち専用の礼拝所もあります。

 カブールではこんな話が語られます。

 もとは、スィーク教徒だった青年がイスラム教に改宗しました。それに激怒した両親が息子を殺害してしまいました。そのうえで、両親はイスラム教徒の反対を押し切って遺体を火葬しようとしました。しかし、何度火葬しようとしても遺体は火を受け付けず、燃えることなく、最後には両親は息子の火葬をあきらめ、遺体をイスラム教徒に引き渡しました。その後、イスラムの儀式に従って埋葬されたということです。

 唯一神「アッラー」の御前で信仰を誓った者は、火葬を受け付けないのだと人々には信じられています。

■神のもと、豊かな大地へ帰る

 戦争が長く続いたアフガニスタンでは、ほかのイスラム諸国のように進んだ葬送システムは確立されていません。

 通常、人が亡くなると、殉教者以外は死者と同性の人の手により遺体がきれいに洗い清められます。それに対して、殉教者は、死者自身が聖なるものとして扱われるため通常、お清めはされません。その後、遺体は「カファン」と呼ばれる白い布にくるまれます。イランなどからの帰還民は、既にカファン用に裁断された特製のカファンを持っている人も多いのですが、アフガニスタンでは、その手の物はいまだ普及しておらず、白い布を切ってカファンとして使っています。

 カファンは、女性と男性では異なっています。女性は、頭、上半身、下半身、両腕、そして全身を覆うための5枚の布を、男性は、上半身、下半身、全身を覆うための3枚の布をカファンとして使用します。カファンの支度が整うと、遺体を担架のようなものに乗せて担いで墓場へ向かうのが一般的です。

 お葬式には、女性が参列しないのがアフガニスタンでは普通です。女性には、遺体が自宅から運び出されるまでのわずかな時間しか、死者とのお別れをする時間がありません。私はジャーナリストという立場で埋葬の場に立ち会ったことがあります。亡くなった場所から埋葬される場所までが遠い場合は、木製の棺に収められて運ばれます。カブールなどの都市だと墓地に、地方だと町外れの小高い丘などに、2メートル程の深さの墓穴が掘られます。そのすぐ近くで、「ナマズ・ジュナザ」と呼ばれるお葬式のお経がムッラー(イスラム教の僧侶)によって詠まれます。そして、遺体の顔をサウジアラビアのメッカの方向に向け、埋葬されます。

 最後に、遺体に土をかける前に「モスルマン(イスラム教徒)神のもと土に返る」と唱えると、参列者は、「アッラー、アクバル!」(神は偉大なり!)と言葉を返します。小高く盛られた土の頭と足にあたるところに墓石を置きます。墓石は、丸石ではなく、平たい石を男性は遺体に対して縦向きに、女性は、遺体に対して横向きに立てます。墓には造花や金モールなどの、飾り付けをする場合もあります。

 死後、間もない時期の女性の墓参はハラームとされ、避けられる傾向があります。女性は、感情の起伏が激しいため、埋葬されたばかりの墓の前で大声で泣き叫んだりすると、死者が落ち着いてその後の旅へ旅立てないとされているのです。墓の場所を女性家族に知らせない家族のケースも珍しいことではありません。

 アフガニスタンでは、遺体を埋葬するにあたり、許可を取ったり、お金を払ったりする規則はありません。「バンデ・ホダ、ホーク・ホダ」ということわざがアフガニスタンにはあります。「神に導かれ誕生した私たち(人間=イスラム教徒)も、再び神のもと、豊かな大地へ帰る」ということです。大地は、誰の物でもなく神のもの。それに対してお金を取ると言うことは、けしからんという考え方がアフガニスタン式です。

 まさに、イスラムが誕生した頃と、変わらぬ風習がいまも、ここアフガニスタンには、残っているのです。

■40日目まで続く弔問の行事

 葬式が終了すると、今度は、ファティアと呼ばれる法事の準備が始まります。

 葬式の後、2日間は親類縁者が、入れ替わり立ち替わりで弔問に訪れます。この時は食事というよりは、お茶とお菓子が出されるのが都市部では一般的です。地方では、死人が出た家族は3日間は食事を振る舞わないのが通例とされていますが、都市部では、そういったことはありません。通常、女性の弔問客は自宅に、男性の弔問客は自宅近くのモスクに訪れます。ここでも男女別々がアフガニスタンの通例です。

 7日目とその後の毎週金曜日、20人から30人ほどの親類縁者が死者の家族を弔問し、自宅でムッラーが死者の供養のためコーランの初めの章から終わりの章まで、2時間ほどかけて詠みます。そしてその後、食事が振る舞われます。

 迎えた40日目。通常200人から300人分のパラオ(アフガン風ピラフ)やコルマ(煮込み料理)などの昼食を用意します。そして生前死者と縁のあった人たちを中心に、ただ通りすがりの人にも食事を振る舞う最後の弔いとともに、イスラムでいうハイラット(喜捨)の行いが死者とその家族の名の下に行われます。生前、イスラムの行いを正しく行わなかった人、たとえば、断食月に30日間の断食を全うできなかったとか、1日5回のお祈りをさぼったとか、ハイラットはそういった過ちを帳消ししてもらう意味合いもあります。40日目の法事がすむと公式的な行事は終了したことになります。

 少し落ち着いたところで、女性はお菓子やお茶をもって初めての墓参りに訪れます。その後は、イードと呼ばれる年に2回のイスラムの祝日の初日には、イード初日のお祈りのあと墓参りに行くのが習慣となっています。また、その年に亡くなった人のいる家族を訪問するのがアフガンの習慣になっています。家族を訪問することで、少なくなった家族の分を元気づけるという意味合いが強いので、特に宗教的な行事は行われず、お茶とお菓子で世間話に花を咲かせます。

■1日も早くかつての穏やかなアフガンに

 カブール中心部には外国人墓地があります。ここに、中国の敦煌莫高窟を発見した有名なイギリスの探検家、オーレル・スタインのお墓があります。スタインは、探検家でもあり、考古学者でもある人で、1970年代にアフガニスタンに発掘調査に訪れた日本隊も、発掘の成功を祈願し墓参りに訪れたそうです。

 現在は、ほぼ100パーセントイスラム教のこの国ですが、復興援助関係者など、キリスト教徒の外国人も少なからず暮らしています。ヒンドゥー住民のように、市民権のある、キリスト教徒は、最近では聞いた事はありません。数年前、イスラム教からキリスト教へ改宗したアフガン人が死刑を宣告され、イタリアへ亡命した話があります。イスラム以外は、異教徒とされ、ましてや改宗の自由など存在しません。それだけ、イスラム教が厳格に守られていると言うことでしょうか。キリスト教会や礼拝堂などは、公共の場にはありません。外国人のキリスト教徒は、イタリア大使館の中にある礼拝堂でミサを行っています。

 最近は、援助関係者が反政府勢力に殺害されるという事件も起きています。ほとんどの場合は、遺体は本国へ送還されますが、それでも本人の希望により、外国人墓地に埋葬されるケースもあります。最近では、タリバン武装勢力にキリスト教の宣教師だと名指しされ、殺害された女性が外国人墓地に埋葬されました。

 私は京都の短大を卒業してアパレル会社に5年間勤めた後、高校時代の友人と共に1年間のシルクロードの旅に出ました。それがきっかけで写真の道へ入り、フリーのフォトグラファーとして1993年からアフガニスタンを取材するようになりました。戦争取材とともにアフガン遊牧民の生活の記録撮影をライフワークとしています。2001年の米軍空爆によるタリバン政権崩壊から、7年が過ぎたアフガニスタン。首都カブールでは、戦中のような空爆や戦闘による犠牲者はなくなったにせよ、新たなテロ戦争のもと、自爆テロが相次ぎ、罪のない人々が犠牲となり、殉教しています。1日も早く、かつてのおだやかなアフガニスタンが戻ってくる日を、と願わずにはいられません。

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 やすい・ひろみ 1963年、大阪生まれ。
 2001年9月、当時の反タリバン勢力の指導者、マスード将軍の暗殺後間もなくアフガニスタンに入り、現在に至る。外国人ジャーナリストの中で最も長い滞在者のひとり。現在は、共同通信社のカブール支局通信員。著書に「私の大好きな国アフガニスタン」(あかね書房)


「再生」第71号(2008年12月)

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