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自然葬について
自然葬(しぜんそう)とは、墓でなく海や山などに遺灰を還すことにより、自然の大きな循環の中に回帰していこうとする葬送の方法の総称である。狭義にとらえると散骨と同義であり、広義にとらえると風葬、鳥葬、水葬、火葬、土葬、植樹葬、冷凍葬など自然に回帰するような葬り方全般を指すというとらえ方もある。
「自然葬」という言葉は、本会が1991年2月、発足にあたって起草した「会結成の趣旨」の中で初めて使われた。社会的な反響があり、1995年には「大辞林」第2版が、1998年には「広辞苑」第5版が収録するなど、またたくまに代表的国語辞典にも載る一般的な日本語になった。
散骨や風葬、鳥葬など墓に入らない葬送法は世界の各地で行われている。日本でも古代より遺体や遺灰は海や山に還すのが主流だった。「骨を砕いて粉と為し、之を山中に散らすべし」と遺言した淳和天皇(786年―840年)や、「それがし閉眼せば、加茂川に入れてうほ(魚)にあたうべし」と言い残した浄土真宗開祖の親鸞(1173年―1262年)などの例からも、遺灰を山や川にまいていた日本人の姿が想像できる。
しかし、江戸時代中期以降、キリシタン取り締まりなどのため寺檀制度の整備が進み徐々に庶民も墓をつくるようになった。明治になってからも、自然に還す葬法は多様なかたちで存続していたが、明治政府の国家的規制や寺檀制度と見合う葬式仏教の因習とも相俟って、死んだら墓に入らなければならないという固定観念が生まれた。
1948年(昭和23年)にできた「墓地、埋葬等に関する法律」が「埋葬又は焼骨の埋蔵は、墓地以外の区域に、これを行ってはならない」と規定し、また刑法の「遺骨遺棄罪」の規定もあって、戦後も長く散骨は一般的には違法行為と受け止められていた。
1991年10月、神奈川県の相模灘沖で「葬送の自由をすすめる会」が行った第1回自然葬は、こうした社会的な通念を破る「葬送の自由」元年の行為となった。
本会は「会結成の主旨」で「遺灰を海・山にまく散灰は、それが節度ある方法で行われるならば法律に触れることはありません」「私たちは先入感と慣わしに縛られて自ら葬送の自由を失っている」と主張した。第1回の自然葬のあと、法務省は「葬送の一つとして節度をもって行われる限り、遺骨遺棄罪には当たらない」、厚生省(当時)は「墓埋法はもともと土葬を問題にしていて、遺灰を海や山にまくといった葬法は想定しておらず、対象外である。だからこの法律は自然葬を禁ずる規定ではない」と、それぞれ新聞の取材に対して同会の考えを追認する見解を明らかにした。これによって、自然葬は日本で初めて市民権を得た。
1985年に死去した英文学者の中野好夫は生前、「できれば墓などつくらず、どこかにさっとまいて、それで一切終わりということにしてもらえば」と周囲にもらしていた。1987年に俳優の石原裕次郎が亡くなったとき、作家の兄、石原慎太郎は「遺灰を好きな海に返してやりたい」といった。そのときは、周囲の反対で願いはいずれも実らなかった。また1990年には、ライシャワー元駐日米国大使の遺灰が遺言にしたがって太平洋にまかれたことが話題になった。世界的には、インドのネール首相、中国の周恩来首相、フランスの俳優ジャン・ギャバンらの著名人の遺灰も海や林野にまかれ、外国では遺灰を自然に還すことは自由に行われていた。
葬儀業界も各地で取り組むようになり、実数はかなりな数になっているとみられる。自然葬を望む根っこには、日本人が本来持ってきた自然との一体感、死後は自然の大きな循環のなかに還るという死生一如の死生観がある。しかし、散骨が現代に自然葬として復活した背景には、次のような社会状況の急激な変化がある。
第1には、カネばかりかかり心のこもらない旧い葬送習俗、つまり葬式仏教とか金ぴか葬儀への批判、第2は日本社会の都市化、核家族化、少子化、高齢化への急展開などで墓の継承ができなくなってきたこと、第3には火葬率が99%を超して衛生上の問題がなくなり、葬送の方法が多様化していること、第4には環境対策として墓地造成に伴う自然破壊に批判が強まっていること、などがあげられる。「葬送の自由をすすめる会」は、自然葬について次のようにとらえている。
「自然葬は、故人の遺志とそれを尊重する遺族の意思によって、つまり自己決定によって海、山などの自然の大きな循環の中に遺灰を還す葬法である。万葉の昔からの伝統的葬法を現代に復活させるとともに、墓地造成による環境破壊を防ぐ葬法である」