会員総会記念講演

私の四国遍路 ~自分だけの手づくりの遍路みち~

2003年会員総会記念講演
 ドイツ文学者 池内 紀

葬式名人だった私

 私は昭和15年に兵庫県姫路市で生まれました。瀬戸内海に面した播州平野です。山地に広い森や山が広がり、暮らしやすい所ですが、町は伝統的なならわしの強い気風を持っています。信仰は本願寺系で、お西さん、お東さんです。
 床の間の横に大きな仏壇があって、扉を開くと、“金づくし”という金箔を貼った美しい豪華な仏壇が、暗い座敷に浮かび上がります。闇の中で扉をギーッと開けて、ご飯を供えるのが子どもにとっての冒険でした。
 本願寺は各地に御坊(ごぼう)さんがある。播州では亀山御坊で、カメヤマゴモンと呼んでいました。祖父がその御坊の世話役をしていて、親鸞聖人の生誕何年とか、寺の行事には否応なく連れていかれたものです。檀家には寺に対する家の格というものがあって、格に応じて墓の大小が決まる。格の高い家は墓地の中でもいい所にあって、墓も大きいのです。
 そうした寺との結びつきが深い中で、わが家では続々と死者が出ました。祖母から始まって祖父が65歳で、父が43で死んだ。2年おきに葬式を出しました。昭和30年代の初めに事故で兄が死に、16歳だった私が喪主になりました。次いで母が54で亡くなった。われながら、自分は葬式名人だと自称したものです。

かたよった寺の配置

 昭和20年代は、死者が出ると葬式は家と関わりがなくなり、近所の差配役が出てくる。一斉に近所が動き出し、家は料理屋になって男衆は酒を飲んでいる。悲しんでいる家族は居場所がない。子ども心に不思議で仕方がなかったし、納得できませんでした。死者を送るという名目で飲み食い自由。集落のハレの日だったのですね。
 四国には大学院の学生だった昭和39年に初めて行きました。母が53歳で腹膜がんで、余命があと半年ぐらいと宣告されて神戸の大学病院に入院していた時です。その年の夏休みに神戸に帰った時、暇だから寺をまわりました。旅費は母から巻き上げて行きました。
 四国遍路は、四国全体に88の寺がちらばっていると思う人が多いのですが、そうじゃない。かたよっています。遍路の“遍”は辺境の“辺”でもある。四国路が京大阪から見れば辺境だし、マップを見ると寺自体がかたよった道のりにある。
 1番の徳島の霊山寺(りょうぜんじ)から9番まで吉野川の流域に並行する形にある。京大阪から入りやすい。次いで和歌山に面した海沿いに10カ所あります。徳島では寺は川と海につながった所にあります。
 室戸岬には3つばかりある。高知市内にかなりあって、6つから7つ集中しています。足摺岬にもちらほらあって、松山の町の周りに9つ近くある。そして瀬戸内に面した今治を中心に10。2つ3つ挟んで丸亀から70番台に入り、最後の88番(大窪寺(おおくぼじ))が1番の霊山寺に近い所にある。かつての城下町を中心にして集まり、非常にかたよっているのが特徴です。

スタンプラリーの旅

 四国を上下に分けると、60近くは北の瀬戸内海に面した所にあり、20前後が土佐側、太平洋側にある。88の寺は人工的に選ばれた。船着き場から行きやすい所にあります。昔、京阪神から行く時は、天王寺から船に乗って徳島に入って1番に行く。初めに人が入りやすい川沿いに10カ所、海沿いに10カ所ある。八十八ヶ所を考えた人は非常に観光センスがあった人ですが、弘法大師はそんな人ではなかったと思います。
 私は神戸の港から船に乗って室戸岬に近い甲浦(かんのうら)に朝4時に着き、24番の最御崎寺(ほつみさきじ)から歩きだしたのですが、南の土佐側が一番面白い。足を使って歩くと、ほどほどの所にポツポツと寺がある。室戸から足摺まで海沿いに1週間かけて歩きました。寺で朱印帳に梵字を書いてもらい、朱印を押してもらう。一種のスタンプラリーです。これも弘法大師の後の世代で観光センスを持った人の発明でしょう。
 公民館やバス停、遍路宿、木賃宿に泊まる旅で、ある日、蚊取り線香とクリームパン、牛乳を買って地蔵堂に寝ていたら、ランニングシャツの少年がおはぎとおしんこを載せたお皿を持ってきてくれました。四国には遍路道のお接待のならわしがあり、20代の学生だった私には貴重な経験でした。
 私が歩いた昭和39年は、弘法大師生誕1150年記念で、寺ごとに朱印のほかに特別なスタンプを用意して押していました。逆算すると814年に生まれたことになりますが、弘法大師の誕生は774年ですから、何を基準にして1150年にしたのかわかりません。

生理と思考が一体化

 遍路は歩いてまわりますが、昔の人はその土地土地に生まれ育ち、その在所で死ぬのが決まりでした。在所の規制に従っている限りは安全だったのです。よその土地に行く、よその土地を知ることは教育であり、人生勉強であり、何かに目覚めることでした。
 寺をまわるにも知識の旅行とは違った時間が必要です。それもお伊勢参り、善光寺参りのような“中央道コース”ではなく、命を落としかねない辺境をまわる。ヨーロッパには四国遍路のようなものはまずありません。
 弘法大師の考えには、人を導く宗教者とはまた違ったものがあったと思うのです。歩く時、頭はいろんなことを考えている。ところが、歩いていると面白い現象が起きる。2日、3日と歩行が続くと、考えることが消えていく。歩くという体の生理と、頭が考えることが一体化する。雑念にあたるものが消えていくわけです。
 四国の南には広大な海の広がりがあります。人間は広い視野があると、くよくよしなくなる。遍路は“同行二人(どうぎょうににん)”と言いますが、むしろ周りのものと一体化して一つになっていく。自然なり、風なり、空気なり、自然に同化する状態になる。歩くことで、体全体がそういう生理に持っていく。
 弘法大師はこうした変貌を一種の“悟り”と考えた。その結果、歩くことが非常に楽しい旅になる。若いうちに八十八ヶ所を全部済ましてしまうのは、もったいないと思います。

山陽圏との深い関り

 私の遍路は40番、愛媛に入ったあたりで打ち止めにしました。全部で10日ぐらいの旅でした。その翌年に母が54で肝臓がんで死にました。私はいわば死と重なった形で四国遍路を体験しました。
 四国の南半分は寺は少ないけれど、とても面白い。土佐側は植生が違います。江戸時代、野中謙山が土佐藩の産業の構造改革をした。役に立たない木は植えるなと、雑木林の中に桑、茶、コウゾ、ミツマタを大々的に植えた。土佐和紙のコウゾ、ミツマタが有名です。高知はお札(さつ)の国であり、お札(ふだ)の国だと言えるでしょう。気候が温暖で、山野と共生する知恵が昔からあった所です。
 数年前、NHKの番組で四国遍路をやり、私は70番台の寺をまわりました。その1つの善通寺(ぜんつうじ)は八十八ヶ所で一番大きく、最も格が高い。弘法大師の出生地であり、大師が最初に開いた寺です。
 88カ所も太平洋側と瀬戸内海側では寺自体の性格が違います。瀬戸内海側は山陽側と密接なつながりがあって、先祖代々、山陽圏から内海を渡って寺に奉仕に来る。いわば、山陽の生活圏に入っているわけです。

数字にこだわる日本人

 遍路は88という数字にあまりこだわる必要がないと思います。日本人は世界で一番、数字が好きで、東海道五十三次みたいに数字で割り振っていく。遍路も満願まで数字を追っていきます。信仰の聖なる場所が数字で割り振られているのは、世界でもほかにはまずないでしょう。除夜の鐘が数字で決まっているのも不思議です。三十三(箇)所とか、百観音、三大稲荷とかありますが、数字はせんじ詰めれば経済の世界です。
 宗教の世界は数字と遠く離れていなければならない。今日はもう少しがんばって4つ行こうというのは、経済の世界になってしまう。それをやりだすと、88が死んでしまいます。日本百名山も数を数えだすと、貯金通帳をしょっちゅう開いているみたいになる。
 数字を無視して、あまりこだわらないのがよい。2つ飛ばしてもいい。逆まわりもこだわりです。八十八ヶ所を88回まわるという人は、もうゼネコンの大工事とあまり変わらない。88は仮のかたちであって、自分で68とか、69に好きに変えればいいのです。
 八十八ヶ所の寺は年間に億の収入がある。私もNHKの仕事をして、住職の華麗な生活を見ました。そのお隣の寺は年間わずか数十万の収入です。けれど、そういうのになかなか良い寺がある。聖なる場所はいわば、しるしであって、出来上がったシステムと必ずしも関係はありません。
 自分の遍路みちをこしらえることが大切です。それが自分の目的を発見する手がかりになります。88以外の面白い所をどれだけ見つけられるかが重要で、寺の数を重ねるのはさほど重要ではないというのが私の考えです。

(了)

池内 紀(いけうち・おさむ)さんは1940年、兵庫県生まれ。ドイツ文学を専攻。東京大学文学部教授。カフカの作品の全訳はじめ、ゲーテの新しい解釈などドイツ文学の業績で知られる。定年前に東大を退官して文筆中心の生活に。山や旅の多数のエッセーがある。