中国支部

活動報告とお知らせ

「第29回 葬送の自由を語る集いin広島」の報告 

 今年度の「集い」は昨年度より1ヶ月早い5月25日(土)に開催したが、地球温暖化の影響か、参加者には少し暑さが気になる集いとなった。ただ、コロナ禍の影響がかなり縮小したこともあってか、まずまずの集まりであった。

「最近の支部活動報告」支部長より

 昨年度は初代会長と元副会長の訃報に伴う会自体の偲ぶ会を計画しているとのことであったが、支部長としては支部報18号に弔文として掲載させていただき、ここでは割愛させて頂いた。
 6月の「集い」では田口前副会長の「自然樹木葬という選択」の講演は、やはり墓地、霊園での樹木葬は極端に言えば、石の標識を樹木に替えただけのものが殆どだという結論に達したことを述べられ、我々会員としては、樹木葬に対して納得のゆく内容だった。
 10月の「広島湾での特別合同葬の実施」は支部としては初の実施となった。この3組の内1組の故人は献体に出された方だったことを知り、献体に出されると遺骨が帰るのが相当遅いようだ。
 最後に模擬葬の申込者が意外に少ないのに驚いているが、二組以上申込みがあれば支部としては実施することにしているので、申込みよろしくお願いします。

DVD上映

「当会の20年の歩み」を変更して、世話人の中條氏の提供した「自然葬のあゆみ」を上映。

吉田副会長の特別講演

「自然葬の歴史を辿る」―散骨した淳和天皇と嵯峨天皇と空海が始めた自然葬の歴史は、いつ途絶えたのでしょう―
 講演は予め講師が用意され参加者に配布された「レジュメ」に基づいて行われ、講演のサブタイトルに添って淳和天皇の散骨の史実を明かにすることから始められた。
 レジュメの説明には、事項ごとに参加者に問いかける問題を挙げ、聴き手の理解を得ながらの形式で最後まで通して、サブタイトルの説明を終えた。
 レジュメの内容と流れをかい摘まんで記述すると、現在の自然葬の定義から流れを表すと 境人内親王(桓武天皇の「妃」)→第53代淳和天皇(散骨)→嵯峨天皇(淳和天皇の兄)―橘嘉智子(嵯峨天皇の皇后、風葬)―正子内親王(淳和天皇の皇后、散骨) となるが、講師はこれだけの連続的な自然葬が行われたことに対して影響を与えたのは、あの真言宗を開いた人、空海ではないかと歴史資料等から強く推察している。因みに、空海の自然葬は淳和天皇の前のようだ。
 だが、天皇家に於ける自然葬の流れは途絶えてしまった。原因は一言で言うと当時の天皇家に政変(後継者問題)が起きたからだということである。では、天皇や皇后の間で途絶えた「自然に帰る」という自然葬の流れは「遺棄ではなく、自然に帰る」という考え方の変化として、庶民の間に広まったでしょうか。
 広まったのである。それは「五輪塔」である。それは墓石ではなく本来は供養塔と言われるものである。供養塔は遺骸や遺骨がなくとも建てられる。供養塔は遺体がなくとも、その人物のゆかりの土地や場所に供養のために建てるもので、供養塔を建てること自体が、仏教に貢献したこと(功徳)になり、死者の供養になる(回向)と考えられていた。地・水・火・風・火という自然でもあり宇宙でもある五輪塔が、平安時代や鎌倉時代に庶民の間に広まっていれば、「自然に帰るようにしていただきたい(空海の言葉)という願いが実現されたことになる。
 戦国時代庶民の墓が大きく変化した。個人も墓石を建てるようになった。五輪塔の周りに小さな石塔が建つようになった。講師は本来の五輪塔を探して奈良、鎌倉を訪ねレジュメに写真を紹介してくれていた。
 最後に奈良市や鎌倉市における五輪塔の広がりの様子から、鎌倉時代から室町・戦国時代にかけて、庶民の間に自然葬は広がっていたと言えると思うが、江戸時代を経て今のような家ごとの「何々家の墓」が登場したのは明治以降である。葬儀や墓の問題は悩ましい問題だと思うが、歴史に学ぶことによって、解決のヒントが見つかるかも知れません。これからも更に淳和天皇や空海について一緒に勉強していきましょう、と講演を終えた。

質疑応答

 講演に対してのQ&Aだったが、特に五輪塔についての現状についての質問があったようだ。質問者は現在郷土史研究家の方で内容は良く理解出来なかったが、私にとってはこれから興味ある課題となると思った。

「令和6年度中国支部定例総会」の報告

「集い」終了後、支部会員12名と共に、定例総会を開催しました。
 議事の第1号議案~第5号議案を審議の上、全て可決頂き、無事定例総会を終了いたしました。

※お問い合わせは、本部事務局までお願いします。☎03-5577-6209