自然葬と現代社会・論考など

自然葬に国有林の開放を

                        本会理事  西俣総平

 うみ・やま・そらへ還る旅・・・自然葬の普及発展をすすめる私たちの市民運動を象徴する言葉である。葬送の自由をすすめる会が発足してからの14年間で、大自然に還った方は1,451人に上る。このうち海は1,127人、山が296人(2004年1月末現在)。山での自然葬は全体のちょうど2割にとどまっている。海での自然葬を希望する人が多いのがその主たる理由だろうが、会員の声を身近に聞いてみると、山に眠りたいと望む人は想像以上に多いのである。

■山の自然葬はなぜ少ない

 山での自然葬が海に比べて少ないのにはいくつかの理由が考えられる。海はチャーターする船さえ確保できれば事実上、日本のどの沿岸海域でも実施可能なこと、季節にあまり左右されずに行えることがまず挙げられる。海と山との実施費用で若干の差はあるが、これはこの際あまり問題にはならないだろう。

 これに対して、山での自然葬は会が実施する場合には、自宅の庭や自分の持ち山に遺灰をまくというきわめて稀なケースを除いて、ほぼ100%近くが会の運営する「再生の森」に遺灰は還される。この「再生の森」が全国でまだ11カ所しかないという現実があり、しかもそのうち7つは首都圏を囲む関東甲信に集中している。

 「再生の森」を事前に見学しておきたいという希望も少なくないが、会では森の所在地が一般に知られて予期せぬトラブルが起きないよう、森の公開はしていない。そのかわり、こころの旅を企画して会員に見学の機会をつくるようにしているけれど、1万を超える会員の目に触れるチャンスはなかなかないのが実情である。これらの要因があいまって、山よりは、オープンで容易にイメージを描きやすい海での自然葬を選ぶ会員が多いのではないかとも考えられる。

■節度ある自然葬運動のために

 「再生の森」が初めてつくられたのは1992年の宮城県・大森山が第1号。自然葬が違法であるという論議がまだ行われていた90年代初期、葬送の自由をすすめる市民運動を定着させる一方で、節度をもって自然葬を実行に移すためであった。そのために、遺灰をまく場所として私有地や公有地を避け、会が所有するか、あるいは有志の会員から提供された山林に「再生の森」が次々につくられていった。

 より正確に表現するために、梶山正三論文『葬送の自由と法律』から引用してみる。

 「葬送のために遺骨を粉状にして山野、海等に撒く自然葬が、刑法190条(注:死体・遺骨等の遺棄・損壊罪)に該当しないという解釈は、既に定着したと見てよいであろう。いうまでもないが、これらの行為には全て条理等に基づく内在的制約がある。さらに、たとえば、民法や公共財産の管理のための法令(国有財産法、自然環境保全法、国立公園法等)による私有地、公有地等について、行為の場所の制限がある。」

 その一方で、「再生の森」にだけとらわれず、広く日本の山野に自然葬を広げようとする発想があっても当然おかしくない。90年代にある会員が将来、国有林に自分の遺灰を散骨しようと考えた。彼(かりにAさんと呼ぶ)がそのために利用したのが当時、林野庁が推進していた『分収育林(緑のオーナー)制度』である。これは国有林の土地に木を植えて、一定期間育てた後に伐採して収益を投資者と林野庁が分収する制度である。

 Aさんは高知県にある国有林の緑のオーナー2口に応募して、100万円近くを投資したところ、投資した場所の所在地図が送られてきた。Aさんの狙いは、大きくなった樹木を伐採して収益の分配を受けることではなく、自分の投資したその場所に将来、散骨をするというものだった。ところが、Aさんの希望に対する林野庁の答はいたって冷たかった。国有林を分譲したのではなく、あくまで将来、伐採による利益を分配する投資契約だからというのがその理由である。

■既に国有林で散骨した例も

 散骨と国有林が関わったケースをもう1つ挙げる。毎日新聞2001年4月23日付に次の記事がある。

 「日本の脱原発運動の理論的主柱で、昨年10月に62歳で死去した高木仁三郎さんの自然葬が22日、高木さんの故郷・群馬県の赤城山の尾根で行われた。高木さんは、生前『赤木山が見える場所に散骨してほしい』と遺言していた。この日、朝から遺族や友人16人が赤城山に登り、尾根の一つの鍋割山(標高 1332メートル)山頂付近の国有林で、遺灰の一部をまいて手を合わせ、故郷を愛した故人の冥福を静かに祈った。妻久仁子さんは『弁護士と相談し、あらかじめ法的問題はないことを確認した。仁三郎が心のよりどころにしていた故郷に戻れてよかった』と話している」

 高木さんには生前、筆者も親しく教えを乞う機会があったが、その清冽な生きざまと孤高の学者にふさわしい還り方だと心をうたれた。ただ、この記事で夫人が弁護士に相談して法的に問題がないと語られているのは、散骨が墓地埋葬法に違背しないという趣旨であろう。この“事件”があってしばらくして林野庁と自然葬問題で交渉したとき、高木さんのケースはどうかと尋ねたところ、林野庁側は「国有林にまくのは認められない。担当の森林管理局に指示して調査する」と答えているからである。

 ところがその後、高木さんのケースが法的に問題になった様子もない。有名人であったから認めたというわけでもなさそうだし、実際のところは事を荒立てるのを避けるため、“見て見ぬふりの、おとがめなし”の事実上の黙認かとも想像している。

■希望者の国民としての権利

 国有林を自然葬に開放してほしいという会の要望に対して林野庁は次のように答えている。いわく・・・国有林のうち木材生産林は林野事業の生産現場であり、いわば企業活動を邪魔する恐れがあるので認められない。水源涵養林や保護林などは国民全体の利益のため、換言すると不特定多数の国民のために利用されるべきものである。これを散骨に提供することは、特定人の利用に供することになるので認められない。・・・

 理屈としてはわからないでもないが、この論理をすべての国有林に適用するのはあまりに杓子定規ではないかと思わざるをえない。俗に“一木一草も現状変更を許さず”といわれるような、尾瀬ヶ原に代表されるような国立公園の特別保護地区や、世界遺産の自然遺産に登録されている白神山地や屋久島に散骨するのを控えるのはやむをえないだろう。しかし、それ以外のすべての国有林でも自然葬を排除するというのは、自然葬を希望する特定個人も国民の1人である限り、その門戸は開かれてしかるべきではないだろうか。

■先進国では開放が実現

 事は法律論の解釈ではなく、社会的な合意の上で国有林の開放を要求するというのが筆者の主張である。かりに“事実上はおとがめなし”の状態であっても、非公然に隠れて散骨するのは市民運動のとるゆえんではない。しかし、法律的には先進諸国での現状はどうなっているのだろうか。

 土葬が中心だったアメリカで火葬を推進している北米火葬協会がまとめた『標準火葬法規』によると「火葬骨は8分の1インチ以下に粉砕してあり、保健基準・環境基準に適合する場合に、人間の住まない公有地および公共水路あるいは海に散骨することができる」という条項を提示している。これは各州が火葬に関連する法規を整備する際のモデルとして提案したものだ。インディアナ州では実際にこの散骨規定を州法IC23-14-31-44号で定めている。

 一方、ドイツのヘッセン州カッセル郡は2001年11月に森林を墓地として使用することをドイツで初めて許可し、116ヘクタールの“安らぎの森”をメルヘン街道が通過する自然保護区域の国有林に指定したことは、本号の「ドイツ葬送事情」にも紹介されている。

 いわば火葬の後進国であるアメリカやドイツでこうした先進的な試みが実現していく今日、日本でも全国の森林の3割を占める国有林を自然葬に開放していくのは時代の流れでもあろう。国有林開放が実現すれば、現在は「再生の森」で自然葬を実施するさいに拠出している森林維持基金(5万円)をモデルにして、国有林での自然葬でも森林維持費用を負担することが考えられる。その浄財が荒れ果てた森林の回復に役立つのなら一石二鳥ではないだろうか。
(2004.3)

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