自然葬と現代社会・論考など

自然葬と現代

                        田口宏昭
はじめに

Ⅰ 自然葬とは何か
 1.生成する文化としての自然葬
 2.自然葬運動の展開
 3.自然葬の実際とその表象世界
 4.消失した葬法の復活としての自然葬


Ⅱ 家郷喪失者たちと自然葬
  1.都市への人口移動
  2.家郷喪失者たちの祖先祭祀
  3.祖先祭祀の困難化とその多様な要因
  4.「しがらみ」から無縁の縁へ

むすび

---------------------------------------------

はじめに

この小論は,20世紀から21世紀への歴史の転換期に日本で発生した自然葬をあたらしく「生成しつつある文化」としてとらえ,その実態とそれが表現しようとする意味の世界,それを支える市民運動とその社会的背景や現代的意義について社会学的考察をこころみるものである 。1)

 知る限りでは,この小論のように自然葬を主題にした先行研究はほかにはない。先行研究がない状況で,日本社会の基層文化と基層社会の変化のきざしにかかわるこのような事象を対象にとりあげて論じることは,それが今進行中のことがらであるだけに試論の域を出ないかもしれない。が,事象の全体を見渡して考察しているので,自然葬の現代的意義を理解する上でひとつの参考になるだろう。

Ⅰ 自然葬とは何か

1.生成する文化としての自然葬

 人間の遺体処理は,ふつう葬送の儀礼のなかに組み込まれている。葬送の儀礼は,死にともなう成員資格の喪失を関係者が確認するとともに,死者の霊(魂)の拠り所(他界)を集団的営みとして確認する儀礼でもある。後に見るように自然葬においてもそれは同じである。この儀礼で用いられる物質的装置(たとえば手向けられる花や棺や死装束),および儀礼のなかで示される哀悼の言語表現や感情表現を含む行動形式は,霊と肉さらには「他界」について各社会が有する観念・意味づけの様式と深く結びつき,前者は後者の総合的な表れであるととらえることができる。しかも緊密に結びつく両者はともに各社会がもつ壮大な「意味・価値・世界観の体系」としての文化の重要な一要素である。両者は儀礼という活動を通して相互に補強しあう。そのために葬送の儀礼は習俗(ならわし)として保守的に維持される性質を持っている。

 今日の日本では土葬ではなく火葬が一般的である。人が死ぬとまず公的な火葬施設で火葬に付されるのであるが,火葬をはさんで一連の葬送儀礼が行われる。これが第一次葬である。その後,適当な期間を経てから焼骨は先祖墓の墓石の内部に入れられ,あるいは納骨堂に納められる2) 。 ここでも儀礼が行われる。これが今日の日本で最も一般的に行われている第二次葬である。日本の社会では,特に遺骨を墓に入れるというこの形式の第一次葬は,たかだか三百年あまりの伝統しか持たないにもかかわらず,日本古来の習俗であると人々は信じてきた。ところが20世紀の最後の10年,日本の葬送文化に根本的とも言える変化が生じた。その変化とは新たな装いの自然葬の出現である。

 自然葬とは,人間の死体あるいは死体に一定の処理を施したものを,墓のような人工的で固定した記銘空間に封印するのではなく,自然の物質循環のサイクルの中に入れ込む葬法のことである。死体をそのまま埋葬するのは土葬であるが,上の定義によれば,墓石の下に遺骨を蔵置しないのであれば,土葬も自然葬の一種だといえる。もしそうだとすれば,これを含む葬法が広義の自然葬であるが,これに対して今日一般的に自然葬として議論の対象になっているのは,死体に焼骨という処理を施し,遺骨あるいは遺灰(成分は燐酸カルシウム)を,一定の儀礼にしたがって撒骨・撒灰する葬法である。これを狭義の自然葬とみなすことにする。言いかえれば,粉末状に砕かれた遺骨,あるいは遺灰を一定の儀礼にしたがって自然界にまく葬法である。

 今日の日本社会のなかで第一次葬の世界に,たとえば「無宗教葬」,「友人葬」あるいは「音楽葬」などと呼ばれるさまざまな形態の葬儀が登場し,特に都市地域での生活様式や価値観の多様化とともに,その形態は多様化する傾向にある3) 。これと並行して第二次葬の世界においても変化がおこりつつある。自然葬と呼んでいるのは,この第二次葬の一形態である。

 自然葬運動の団体であると同時にその実施団体でもある「葬送の自由をすすめる会」の会員の場合,すすめる会との間で,自然葬の実施に関し,契約が交わされる。会員は一定額の,ほぼ実費に近い費用負担をし,ほかに自然葬基金を寄付して実施契約を結ぶ。そして実施予定日に,会本部ないし支部から数人の会員が契約の家族に同行し,立会人として自然葬の実施を補佐する。

 現地での自然葬は,次のような手順にしたがっておこなわれる。当日,実施契約を結んだ家族は持参した遺骨・遺灰を海に撒く,あるいは山の木の根元に撒骨・撒灰し,水や酒を注ぎ,生花(はなびら)を撒く。その後全員で死者への黙祷を捧げたのち,立会人が自然葬実施証明書を遺族に手渡す,という順序で進行する。海での自然葬の場合は,これと前後して号鐘(汽笛)が3回鳴らされ,船が3回周回してから現場を離れる。これで一通りの儀礼が終了する。

 自然葬には数家族が合同で行う合同葬と,単独で実施する個人葬の二通りの場合がある。いずれにするかは家族の意思で決められる。

 儀礼の基本形はこのようにほぼ決まっているが,主宰者と相談の上,立会人の判断で臨機に変更する場合もある。立会人の主要な役割は,開式の短い言葉を述べること,黙祷の開始の合図を出すこと,自然葬実施証明書を家族の代表者に手渡すことの三つである。これ以外は,家族が予め実施したい形態や内容を立会人と数日前に簡単に打ち合わせるだけで,当日は家族の希望通りの形式で進められる。故人が生前に好んで聞いていた音楽が奏でられ,あるいは好んだ詩の朗読が行われる。また参会者たちが合唱することもある。会員の間では,そのような自然葬は,「自分らしい死」「あの人らしい死」として語られる4) 。そこでは個人「らしさ」が価値をもつありかたとして評価されているように思われる。

 このような自然葬は,既存の文化としての葬送習俗と対峙し,軋み音をたてながら生成しつつある文化である。自然葬の実践は,単に家族や親族や狭い地域社会の範囲における伝統的な考え方と新しい考え方の違いを浮き彫りにすることにとどまらず,その背景にある現代社会の変容をも示唆する,いわば大河の流れの構造的変化を示すものなのである。

△ Topへ

2.自然葬運動の展開

 このような自然葬はながらく違法だと思われ,明治期以来,日本人は遺灰や遺骨は墓に入れることが自明だ,という思い込みの世界のなかで墓をつくり続けてきた。ところが1990年に奥多摩に広がる東京都の水源林を守ろうという安田睦彦らが中心となった自然保護運動がきっかけとなって,この自明性に亀裂が入り,揺らいでいるのである。

 さて今日広がりを持ちつつあるこのような自然葬を支えているのは,「葬送の自由をすすめる会」(以下「すすめる会」と略称)がすすめている市民運動であるが,1991年2月に「旗揚げ大会」を開いたその同じ年の10月,神奈川県相模灘沖で第一回目の自然葬を実施した。この団体が,それまで違法と思われていた自然葬を実施することに踏み切ったのは,火葬場から出される遺骨・遺灰のうち,遺族が骨壷に入れて持ち帰った残りの分が,通常,産業廃棄物として処理されているという事実を知ったからである。すなわち遺骨・遺灰が産業廃棄物として処理されているのであれば,まして儀礼を通して節度を持って行う限り,刑法第190条 5)に抵触しないはずだという確信がえられたからである。因みに同条は「死体損壊等」について次のように定めている。「死体,遺骨,遺髪又ハ棺内ニ蔵置シタル物ヲ損壊,遺棄又ハ領得シタル者ハ,三年以下ノ懲役ニ処ス。」自然葬を行うことは違法なのかどうか。その場合,自然葬がこの条文の「遺骨」の「遺棄」に相当するのかどうかという点が関係当局の判断の焦点になろう。

 ところが自然葬を実施した直後,関係機関である法務省刑事局は「刑法190条の規定は社会的習俗としての宗教的感情を保護するのが目的だから,葬送のための祭祀で節度をもって行われる限り問題ない」との公式見解を示した6) 。また同様,関係機関である厚生省がこれと前後して示した見解も「墓地,埋葬等に関する法律(墓埋法)」は「自然葬を禁じる規定ではない」というものであった7)

 この見解発表によって,自然葬運動は最大の障害を取り除かれ,海と山を中心に日本各地で自然葬が実施されていく。と同時に,「葬送の自由」,「自己決定」の運動理念を法理論的に組み立てる取り組みが進められた。東京を中心に各地でシンポジウムが開催され,マスメディアを活用した運動が展開された。また,日中のそれをはじめ,国際的な連携の取り組みも行われ,地球環境保護と自然葬運動を結びつける方向が選択される。

 自然葬が社会的に認知され,一般市民の関心が高まり,「すすめる会」の入会者が増加してゆくにつれて,墓に利害関係を持つ墓苑業界団体や,そこを「天下り」先とする厚生省生活衛生局官僚などが,自然葬の法規制を行おうとする動きを見せはじめた。このような法規制の動きは,「すすめる会」にとって,発足以来の最大の危機であった。しかし「すすめる会」によってこの動きが批判され,また規制を進めようとする側も法規制の正当化をはかりがたく,結局は規制を制度化できないままである。

 他方では,「すすめる会」の非営利法人(NPO法人)化の準備が進められた。認可の諸条件を満たす準備が整って申請が認められ,「すすめる会」は2003年に「NPO法人 葬送の自由をすすめる会」として再出発し,会員数1万人を越える規模のNPO法人に育ち,今日に至っている。

△ Topへ

3.自然葬の実際とその表象世界

 自然葬は世紀の転換期に「生成しつつある文化」である。文化とはある範囲の人々の間でほぼ共通して見られる,物事の考え方や感じ方,行動の仕方のことである。それはまた,しばしば形をもったさまざまなシンボル(象徴)として表現される。その意味において,食事の仕方が文化であるのと同様,死者の送り方もまた文化である。だから死体の処理の仕方をめぐって生成中の自然葬も文化である。

 次に葬送文化としての自然葬の,表象の奥に横たわる人々の感情や信念・観念など,内容的な意味の世界に立ち入ろう。「すすめる会」の会員はもちろん,非会員のあいだでも自然葬に惹きつけられる人々の数は相当なものである。自然葬への関心の高まりの中心部には一体何があるのだろうか。

 一つは,葬送儀礼が死者に対する敬意を失って形式化している,という現状に対する強い疑念と不信である。これに関してはⅡの3であらためて検討する。第二のものは,ある意味において,より積極的な形として祖先の他界観念が変容し,私たちの日常の生活拠点周縁部から山や海,地球,宇宙へと広がりを持つようになったことである。それは一言で言えば,他界観念の多様化である。

 かつて柳田國男は日本人の祖先観の特徴のひとつに,先祖は死後遠くには行かずに子孫と交流をくりかえすことを挙げた8) 。これに対して自然葬にかかわる人々の祖先観(というより他界観)はこれとは対照的に,多様性という意味において拡散し,グローバル化という意味において拡大している。このことを具体的に確認し,自然葬支持者たちの表象世界をあきらかにするために「自然葬をすすめる会」が季刊で発行し会員に配布している冊子である『再生』に注目し,会員が寄稿した手記を資料に分析をこころみる。

 最初にあげる事例は,直腸がんで亡くなった59歳の夫を相模灘での自然葬で葬った女性の書き記した短い手記である。彼女は「・・・シナーラ号で親族,友人,孫に見守られ,散灰できました。これからは主人も同室だった友人と二人,つらかった病院生活から解放されて,好きだった旅行,写真など続けてほしいと思います9)。」 と記している。ここでの死者の他界はおそらくこの場合,相模灘という海か,世界の海かは定かではないが,生前の生活で中断された楽しみを故人が他界で楽しめると観念している。そこでは現世と他界は連続性を持つものとして表象されている。現世での生活を他界でも続けるということは近代的理性に照らせばありえないことである。寺檀制度の残滓からの自由を得るという点では,自然葬の実施という自由への決断は近代の獲得であるが,現世と他界の連続性を夢想したその瞬間にこの遺族は近代を突き抜けて脱近代への飛躍を果たしているのである。

 別の例では他界である海が次のように表象されている。1997年に夫を亡くした女性が2000年に献体から戻った遺骨を自然葬で海に「還した」。彼女の手記から抜粋する。

 「代々の墓はありますが,死後は葬式無用,骨は大好きな沖縄の海へと遺言状にも書き,常に口にいたしていました。(中略)肝臓癌であと3ヶ月の命と本人の目の前で告知されて以来,投薬,注射,手術,治療は断り,もちろん入院はせず,残された日々を身辺の整理,俳句,野球観戦を楽しんで,告知どおり3ヶ月後に自然死を迎えました。遺志どおり,10月7,8,9日の連休を利用して娘夫婦,孫,親族11人で沖縄の慶良間へ撒灰にまいりました。(中略)花びらとともに遺灰を海に流し,主人の新たな旅路を見送りました。船は3回旋回,弔笛を鳴らし,黙祷をして別れの儀式をしていただきました。今ごろは珊瑚礁で魚とたわむれて喜んでいることでしょう。すてきなロマンチックな葬送のできたことを感謝しています。(中略) 主人が片手を挙げてバイバイと去っていく姿を想像して,きっとまた会えるでしょうと,私はほのかな心のときめきを感じました10)。」

 彼女にとって,夫の死は「自然死」であったこと,遺灰を海に流すことは,「新たな旅路」のはじまりであり,生前好んだ珊瑚礁は夫にとっての他界であると表象されている。彼女の夫にとって慶良間の海はふるさとの海でもない。が,それがあえて選ばれている。ここでも他界は,死者にとっての近接の空間ではなく「無限」への広がりを持つことがわかる。そしてそこから「新たな旅路」が開始され,夫婦がその他界でやがて一緒になると想像されているのである。ここでも墓を造らなければならない,墓に入らなければならないという「因習」からの意識の解放が果たされ,その限りにおいてベクトルは近代へと入るのである。が,同時にその瞬間に海を他界と夢想し,自然との融合を志向する脱近代への第一歩を踏み出しているのである。

 上の事例以外に海での自然葬を実施した人々から寄せられた数々の手記を検討してみると,海がどのように表象されているかがよくわかる。引き続き引用してみよう。

「「母」という字は「海」という字のなかにある。海のように広く深い母の愛。ここが母の眠るにふさわしいところだと思った。お母さん長いあいだありがとう。」11)

 これはもっとも頻繁に海での自然葬が実施されている相模灘に母親の遺灰を流した女性の例である。「広く深い」「海」は「広く深い」「母の愛」の象徴として語られる。この女性にとってやがては自分も他界そのものである「母なる海」に還っていくと想像されているのであろう。他の例では,「生命体の根源である海」12) として海が語られる。

 海での自然葬を選ぶ人々は旧来の他界とみなす墓・納骨堂を「暗い」「いやな場所」「じめじめしている」「閉じ込められる」と表象する一方,自らの他界を,広くて自由に動きまわれる空間としてイメージする傾向がある。他界は彼岸として表象されるのであるが,その彼岸が海であり,自分もやがてそこに赴き,死者との再会が予定されている。

 海での自然葬に対して山での自然葬の表象はいかなるものなのだろうか。一つ目の事例は,1999年,北海道のニセコの「再生の森」で行われたものである 13)。故人の兄は次のような手記を寄せている。

 「若いトドマツの根元にみんなで撒灰し,持参した花びらをまいた。その後,詩を朗読して葬送を終えた。妹節子の遺志はこれで果たされた。どうかこの地で安らかに眠ってくださいと祈りつつ,森に別れを告げました。」

 この例に限らず,自然葬を終えた遺族は,そのことによって「故人との約束を果たした」という感情を持つようであるが,この事例においても,「遺志はこれで果たされた」と語られている。また「再生の森」は,死者が「安らかに眠る場所」として表象され,この場合,海での自然葬に比べて空間的表象が限定されるが,墓,納骨堂と比べれば,はるかに広大な自由空間とイメージされている。

 二つ目の事例は長野県の聖高原の「再生の森」で,55歳でなくなった母親の自然葬をこの寄稿者自身が行ったものである。寄せられた手記には次のように記されている。

 「・・・母が逝ってしまった時,母の手帳から会のことを知り,一人娘の私が母の最期の願いをかなえてあげようと思いました。(改行)この日,聖地を思わせるような山の中で,小さく小さくなった母のお骨をまいている時,風のなかにあの母の声で「朋子,ありがとう」と聴こえた気がしました。涙がとめどなくこぼれて,黙祷の間に必死にぬぐってごまかしていました。この日までいろいろ大変だったけれど,これで良かったんだと心から思えました。一人残された悲しみは深すぎるけれど,私もいつか自然に還り母に会えるときを楽しみに,今はがんばって生きてゆこうと思います。」14)

 「一人残された悲しみは」という文面から,母一人子一人の家族であったと推察されるが,ここでも故人の希望をかなえたことが確認されている。自然葬を実施した山は「聖地」と表象され,自らもやがて「自然に還り」,母親と「会える」ことが生きる希望になる,と語られる。

 海における自然葬の例で見たようにここでも死者との再会は,死者霊の招霊により現世で果たされるのではなく,生者がやがて死者となった段階で他界としての森,山,自然に赴いて果たされる。死者との再会の場が墓からそれらに置き換えられたに過ぎないと考えられなくもないが,招霊の観念の形跡はもはやない。

 三つ目の例では,1999年,東京都の西多摩の「再生の森」で実施された,89歳で亡くなった女性の甥の妻が手記を寄せている15) 。「とてもきれいな森でした。小さな花がたくさん咲いていました。さりげない撒灰でしたがやっと伯母の願いをかなえてあげることができました。とても心に残る一日でした。人が自然に還るんだということが実感でき,同時に伯母の一生が素敵な一生だったんだと思えました。(中略)二年前まで,確かにここにいたその人が灰になってあの森の中で土に同化してしまうということが,何か夢の中でのでき事のような気がして・・・・・。(中略)彼女は私たちに素敵なものを残してくれたように思います。私達も自然の一部なんだ・・・」。

 森の好印象と故人の願いをかなえられたという満足感とが語られ,人が死ぬと,季節にはその上で花々が咲き乱れる土への人間の同化を想像することを通して,人間が「自然に還る」ことが表象されている。ここでは他界の観念はどちらかといえば希薄で,自然葬によって人間の肉体が自然の物質循環の輪のなかに入ってゆく,と観念されている。

 これらの例に見たのと類似の他界表象をこれ以上枚挙する暇がないので,他の事例も参照した結論として,自然葬を志向する人々の他界観を,二点に要約しておこう。

 第一点は,死者がまるで身体性を取り戻して広い自然界で生き続ける存在であるかのように表象されており,特に海での自然葬の例においてその傾向が強い,ということである。

 第二点は,祖霊観念が希薄であり,盂蘭盆会に死者霊を招くという日本の一般的な習俗の根底にある発想がどうもなさそうである,ということである。霊や魂という用語法は手記のなかには登場しない。「すすめる会」が主催するシンポジウムなどでも霊や魂の問題が登場するが,会員の宗教が多様であることもあり,会の理論的指導者たちは,その有無について当然慎重であり,何の結論も示していない。会員がそれを話題にすることは自由であるにもかかわらず,霊や魂の用語はめったに登場しない。『再生』の立会人自身の実施報告中に「たくさんの花びらは美しい弧を描いていつまでも海面を飾り,そこから天に昇られた魂の飛翔が見えたような気がした」という表現があるのがまれな例である16) 。大部分の自然葬志向の人々にとって,仮に死者霊という語を用いるとすれば,それは生者から現世に招かれるために近くに待機しているのではなくて,自然のなかに遍在し,移動し,姿を変えながら自然界を循環していると想像される。そこでは死者霊は生者がこちらへ招くものではなく,生者がこちらからやがて同じ他界に赴き,そこで再会を果たす。死者霊はそのためにそこで移動しながら待つ存在なのである。ここには生成する文化としての他界観の転換が進行していると見ることができるのではないか。

 以上のことから,近世に確立され,現代に至るまで残滓として機能的には根強く生き続けてきた寺檀制度によって固定された他界観が,20世紀の最後の10年間に,動揺を始めたように思われる。脱「寺檀制度」の動き自体は平成にいたってやっと始まった「近代」に向かう動きであるが,他界観のこのような転換は「脱近代」の動きだと言いたいのである。筆者が,「すすめる会」の一般会員のうちに,近代を通り抜けたある種「脱近代性」を見るような気がするのはこの点においてなのである。このような動きがたしかに大半の日本人の意識の,したがって文化の古層にあるアニミズム的な他界観に回帰する動きと捉えるのか,あるいはまったくあたらしい他界観の生成を意味するのか,まだ当分の間の慎重な検討を必要とする。

△ Topへ

4.消失した葬法の復活としての自然葬

 葬送儀礼と葬法をここでは区別して,死体の処理の方法を狭義の葬法と呼んでおく。人間の死後の葬法にはさまざまな形式があるが,日本の葬法には大きく分けて土葬,火葬,水葬,林葬の四つがある。あるいはこれに風葬を加えれば五つになるかもしれない。

 土葬は文字通り,人間の死体を大地に穴を掘り埋葬する葬法である。かつてはこのような土葬が一般的であったが17) ,明治期以降,大都市を中心に火葬が行われるようになっていった。因みに1998年現在,日本の火葬率は98.4パーセントである18) 。今日行われている自然葬はこれらの葬法のうち火葬に属するが,死体の焼骨後の扱いとして遺骨・遺灰を墓石の下に入れるか,撒骨・撒灰によって広大無辺の自然に還すかで,自然葬と呼ぶかどうかの違いが出る。また,近年聞かれるようになった「樹木葬」も一種の自然葬に分類できなくもない。これは,形式だけを見れば死者の遺灰は樹木の根元に撒かれ,それはいずれ自然に還るので,その限りでは自然葬ともいえる。ただし,その根元に撒かれるべき樹木は依然として特定の家,特定の死者のための祖先祭祀用の樹木にとどまる。

 自然葬の,多分に宗教「的」な意味合いを持つ象徴的行為の側面に注目した場合,それと比べてこの樹木葬は,檀家制度に起源を持つ墓石を用いた遺骨信仰と祖先祭祀の観念の延長上にある新しい装いの墓と見ることができる。

 さて欧米においても,井上によれば,火葬率が上昇するにつれて,葬法の多様化がすすんでいる19) 。たとえばイギリスでは,遺灰を一定区域の芝生の上に撒いたり埋めたりする葬法であるスキャタリング・グラウンド(Scattering Ground)が行われている。ドイツでは「無名の」を意味するアノニューム(Anonym)と呼ばれる墓標のない芝地への撒灰がおこなわれ,またスウェーデンでは「広大で限りなく自然に近い」墓地エリア(追想の丘)における撒灰や遺灰の直接埋葬が行われている。キリスト教など特定の宗教と結びついていた伝統的な葬送の規範から人々の意識が自由になるにつれて,火葬による遺体処理の後の遺灰の扱いが,自然葬や,自然葬に近いものへと多様化してきている。このような変化を可能にしてきたのは,火葬の普及であるといってもよい。

 このように自然葬は多様なのだが,死体の処理という点では,火葬を行った後,遺骨ないし遺灰を山,川,海などの自然に撒骨・撒灰する葬法であると考えれば,このような葬法自体は日本においてはすでに古代から行われていた,と安田は証拠を挙げながら主張している20) 。安田は柳田國男の『葬制の沿革について』によりながら次のように言う。「もともと墓をつくる慣習は,日本古来のものではない。古代から中世に至るまで,庶民は遺体を,山,森,林,野,川,海,島などに捨てていた。」21) と。いわゆる自然葬こそが一般的であったというのである。仏教が伝わり,

 火葬が始まる6世紀以後になると,それまで遺骸を永久に保存するための古墳や塚をつくった天皇や貴族が,薄葬すなわち簡素な葬送を尊ぶようになったという。なかには淳和天皇のように「骨を砕いて粉となし,これを山中に散らしめよ」と遺言した例もあり,奈良時代から遺灰を撒く習慣は広く行われていたらしい。

 ところが安田によれば,中世から近世にかけて,遺体に対する態度に変化が生じ,「遺体は捨てるべき忌避の対象から,供養し祀る対象に変化した。」 22)という。そして「貴族や武士ら支配階級の一部は,寺院の中に墓地をつくるようになった。」23) さらに安田によれば「庶民が墓をつくるようになったのは,江戸時代にキリシタン禁圧をねらった幕府の檀家制度が敷かれてからのこと」である 24)。この点について梶山正三は,大桑斉の『寺檀の思想』(教育社,1979)によりながら,寺檀制度の変遷を次のように要約している。「江戸幕府が音頭をとって始めた制度ではなく,各藩ごとに形成されたものを,幕府が当初キリシタン迫害に利用し,後には民衆統制制度として完成させたものと考えられる。(中略) 完成された姿としては,各戸を檀家として,それに対応する旦那寺に従属させ,「改檀の禁止」によって,従属的関係を強化し,寺請制度によって,各戸の戸籍や身分・出入等の管理を寺にやらせたのである。見返りとして,寺は檀家の葬祭を一手に取り仕切り,お布施等による収入を安定的に獲得できた。」25)

 梶山はここからさらに葬送への国家の干渉の歴史について論をすすめるのであるが,明治民法における「系譜,祭具及ビ墳墓ノ所有権ハ家督相続ノ特権二属ス」という規定から,いわば家督相続者の家督の継承を保護する意味において「個人墓」ではなく「家の墓」の形成が推し進められるのである。

 その結果,死ねば直系の家族成員とその配偶者は家の墓にいることが当然視される習俗がながらく維持されてきた。このような現実に対して疑問を持ちながらも,遺灰・遺骨を自然に撒くことの違法性が疑われなかったために自然葬は長いあいだ実現されなかったのである。自分の死後の葬送の形も「居場所」も自分で決めたいという多くの人々の願いを実現するきっかけを与え,それを強力に後押ししてきたのが,市民運動としての自然葬運動であった。

Ⅰ 自然葬とは何か

Ⅱ 家郷喪失者たちと自然葬

 以上,自然葬運動の経緯を見てきたが,このような運動が短期間に一定の支持を広げ,また一般の世論調査においても,条件が適うならば自らも自然葬をしてもらいたいと願う人々が,70%以上もいる時代になってきた。

 「すすめる会」の会員だけでなく,特に若年層において自然葬を支持する態度がより顕著であるということも注目される。ただし「すすめる会」が各地で開くシンポジウムは,会員以外にも呼びかけられ,一般公開されているが,参加する人々は中・高年齢層に著しく偏っている。逆にそのことは中・高年齢者がかかえる墓の問題の切実さを反映していると言える。

 会員の地域分布は都市部,特に大都市圏に偏っており,このことからそれら地域の居住者のあいだで墓をめぐる切実な問題をかかえる人々が多い,と推定される。それは現代の都市,特に大都市が抱える墓地問題とも密接に関連していると思われる。本節においては都市部,特に大都市圏の中・高年齢層の居住者がかかえる諸問題の一端としての墓と祖先祭祀の問題を,自然葬を支持する態度と関連づけて考察したいと思う。

△ Topへ

1.都市への人口移動

 そのためにまず都市部,特に人口が100万人をこえる大都市圏の居住者の来歴に注目しよう。

 きわめて概観的な把握になるが,来歴を日本列島における人口の地域移動,特に農村から都市への移動という観点からとらえてみる。

 まず都道府県別の5年毎の人口増減を見ると,その都市集中ぶりが伺える。出生と死亡による自然増減を考慮に入れなければならないが,1920年(大正9年)以降,都市人口は長期的には第二次世界大戦後の約10年間の減少を除き,著しい増加傾向をたどってきたのであるが,さしあたりいま手元にある,『日本の人口』(総務庁,2000)を参照すると,例えば東京の人口は,1920年(大正9年)に3,699,428人であったものが,20年後の1940年(昭和15年)には7,354,971人に達した。約2倍強の増加ぶりである。出生と死亡の差により算定される自然増分を差し引いても,この増加のかなりの部分は農村から大都市東京への人口移動分が占めることは明らかである。これをどう理解すればいいだろうか。そのヒントとして戦前期農村の家と人口移動の関連についての有賀の研究に耳傾けよう。

 有賀は「日本の家」という論文のなかで,近代の家を知る上で注目すべき点を3つ挙げている。それは,「第一に家族の数であり,第二に家族の種類であり,第三にそれらの家族を含む生活条件であるとし,いつの時代の家を知るにも大切な点であるとしている26) 。この三点に沿って彼は日本の資本主義経済の展開と農業人口の変遷についてデータをもとに分析するのであるが,次のように結論づける。1920年頃より第二次世界大戦直前までをみると,「第一次大戦中には日本の資本主義経済が長足に発展したので,都市人口は膨張し,農村は初め相当の人口を出したが,それでも農家の平均人員を大きく減少させるまでには至らなかった。」27)  彼がこのように結論づける理由の詳細をここでは省略するが,一般に通説として理解されているところの,恐慌の際の「安全弁」としての農村,という仮説に対して少し距離をとる見方をしていることが次の記述からわかる。「恐慌によって都市の機能に障碍が生ずるとそれをいくらかなりとも負担し得る部分(農村)に向かって人口が流れ込むとしても,いったん農村から流れ出した人口が都市で一定の社会組織の中に定位すると,恐慌になっても,その全部が還流することはあり得ない。このことが農業人口と他の職業人口との比率を替えて来た大きな理由の一つとなっているが,家の生業としての,また手労働による労働組織は還流する労力をいくぶんでも多く抱擁する可能性があった。」28)

 筆者がここで特に注目したいのは,第一に,有賀が「いったん農村から流れ出した人口」が「都市で一定の社会組織の中に定位する」と,恐慌になっても,「その全部が還流することはあり得ない」とする点である。ここでは都市での「定位」が農村への「還流」を押しとどめるべく作用している,とひとまず理解できるであろう。その上で,都市人口の必ずしも全部の「還流」があり得ないという有賀の主張は,よく知られている次の事実からもうなづける。すなわち,いわゆる産業別就業人口において第二次産業就業人口が,好況と恐慌の景気循環における一定の農村還流人口と都市への再還流人口によって影響を受けたとしても,長期的にみれば右肩上がりに増加していったことが明らかにされている。これをミクロレベルで推定すれば,農村から流れ出し都市の社会組織の中に組み込まれた人口のうち一定部分は,縁組によって都市において新たに形成した親族ネットワークや都市の自治組織,労働組合,あるいは同郷組織や友人関係をはじめとする都市内の社会的ネットワークなどのもつ生活扶助機能を通して,恐慌時にも都市にとどまり得たのではないか。

 このような理解の仕方を,戦後の経済変動と人口移動の理解に適用してみるとどうであろうか。戦後の人口移動が都市を中心とした経済発展であり,農村から都市へと移動した人口の大半は都市の第二次産業,さらには第三次産業労働力として都市に吸引されたことは知られるところである。ここでまず戦後の具体的な人口動態を主として東京を例にとって確認しておこう。

 戦後すぐ一旦は1920年代の水準にまで低下した東京の人口は,高度経済成長が軌道に乗り始める1955年(昭和30年)には戦前のどの時期をも上回る8,037,084人に,さらに1965年(昭和40年)にはついに1000万人を上回10,869,244人に達した。その後約200万人の増減幅で今日に至っている。この間,東京の人口の増加率が鈍り始める時期と埼玉県,千葉県,神奈川県など隣接県の人口増加傾向が見られる時期はほぼ重なっている。すなわちこれは会社などの事業所と労働力の大都市集中という動きが東京を核とした巨大都市圏の全域において進行したということを物語っている。埼玉県,千葉県,神奈川県とも1947年(昭和22年)には200万人をわずかに上回るに過ぎなかった人口が,高度経済成長がほぼ完結する1975年には各々3,866,472人, 3,366,624人, 5,472,247人に達した。特に神奈川県の人口の伸びはその後も著しく,1995年(平成7年)には,1947年人口の約3.7倍の8,245,900人にまで膨張した。これと類似の傾向は愛知県,大阪府,兵庫県,福岡県などにおいても見られる。

 これらの数字に見られる人口増加の要因として,上述したように都市内での自然増によるものがある一方で,農山村からの就職や転職,進学による人口移動の影響が大きい。経済変動のなかで不況期に押し出されて農山村へ還流する人口はわずかであり,また戦後の農家においては,特に1950年代後半に入ると基幹労働力の流出後の空白を機械化で埋め合わせたため,戦前のような手労働が農業労働の分野から失われていった。このことは,農家に還流人口の包容力を失わしめたことを意味するものであった。

 このようにして,戦後の高度経済成長期以降,農山村出身の大量の人口は都市人口,特に大都市人口の一員となり, 経済不況時はもちろんのこと,転勤などを経た後の定年退職後もそこにとどまったといえよう。それは農業統計に見る農家人口と農業就業人口の激減に明らかである。

△ Topへ

2.家郷喪失者たちの祖先祭祀

 都市に流出した人々にとって,農山村はその家と故郷の意味をあわせもつ家郷である。それらの人々にとって家郷が還流するところではなくなるとき,第一段階の家郷喪失を経験しはじめるのである。「経験し始める」といったのは,その経験が一挙に家郷を失わしめるものではなく,人々のライフサイクルの進展に応じて,社会関係の軸足が家郷の人々との結びつきから,都市内の社会関係の結びつきへと徐々に移行していくからである。しかもこの社会関係は,たとえば職場の冠婚葬祭から年中行事への参加に見られるように,擬似共同体的な特徴を色濃く残し,これへの参加が実生活における家郷とのつながりを弱めるべく作用していった,と考えることができるのである。

 では,農山村に還流することなく都市にとどまる人々にとって,祖先祭祀の問題はどのように解決されるのだろうか。

 民法上では家産の長子相続の規定はなくなったものの慣行的な長子相続は存続する。したがって,ある時期までは,長子が農山村にとどまる限り,かれは家産の相続と引き換えに仏壇と墓の維持管理も含めた祖先祭祀の義務を負う。のみならず配偶者とともに親の扶養や介護の義務も負うことになったであろう。盆と正月における都市他出者たちの帰省行動はそのことをきょうだいたちの間で確認する機会ともなってきたのである。

 しかし,農家戸数の減少が示すように他出者が長子にまで及ぶと,家郷の家・土地などの家産とともに墓の管理も親族に委託せざるを得なくなる。その親族も,定住地が相互に離れ,また代替わりもしてゆくうちに疎遠になるのは成り行きである。ならば故郷の家の墓は廃止し,自分の定住地である都会の墓地に改葬する,という選択肢をえらびとる人々も現れてきた。

 他方,他出者のうち次,三男は,親の墓の維持管理の責任はない代わりにそれとは別に,定住する都市に自分たちの墓を創設することを社会的に期待され,また自らもそれを人生の目標の一つにすることが近年まで一般的でもあった。

 このことに関し,時代を少し遡りすぎるかもしれないが,かつて柳田國男が「ご先祖になる」という言い方についてある興味深い話をしている29) 。この表現が見込みのありそうな跡継ぎでない子どもたちが努力して立身出世するよう励ましたり,慰めかつ力づける表現として用いられたりすることがあり,また周辺がそのように言うだけでなく,本人自身が「ご先祖になる」ことを目標にする場合もあったという。

 「ご先祖」のこのような用法を,戦後日本の都市定住者に当てはめて考えることは,あながち的外れではないように思われる。時代を経ても日本人の意識の底流には今なお,柳田の言う,「ご先祖になる」という規範が意外にも沈殿しているのではないか。もしそうだとすれば,大量の人々が農山村から他出し,都市での結婚を契機に生まれ育った家族から独立して一家を構え,それなりの家作を子どもに残して自分が新たな先祖の出発点になって墓をもつ,すなわち分家になるのである。そしてその子が親の祖先祭祀をする。

 後述するような墓地不足は,このような事情で墓を求める大量の人々が大都市圏に在住していることを示唆するものであるといえないだろうか。これらの人々は,つまるところ家と土地と墓が一体となった小宇宙としての家郷を喪失したのである。だが,ただ喪失しただけではない。都会の定住地で家郷に代わる擬制的共同体に所属し,社会的ネットワークを形成しながら,都市の内部に新たに「幻の家郷」を後代に残すことを夢想する人々なのである。けれども,それを確固とした「家郷」とするには,墓地の確保をはじめとしてあまりにも取り巻く状況は不安定できびしい。にもかかわらず多くの日本人が家族の死に際してとる態度は概ね保守的である。この点に関し,女性の視点から北川慶子が,「残された者が故人の生前の意志をおもんばかって葬送も生活の整理も行うものという暗々の合意がある。」30) と指摘している。ここに示されているのは現代日本人の葬送習俗への順応的態度である。北川はその背景説明として,「これも従来わが国では旧民法(1890年制定)の家制度を核とする考え方が残存していることを示すものであるといえよう。」としている 31)。周知のように,家制度は1871年(明治4年)制定の戸籍法によって公権力による基礎づけを与えられるが,北川が言うには,以来,「戸主-家族,親-子,夫-妻の関係において」,一連の葬送や「明治期になって建造することができるようになった家の墓」の管理も,「戸主,親,夫のいずれかが考えることであって,家族員一人一人が考えることではなかった。そのためか,最近まで,自己の死と葬送のあり方と葬られる場所などについては殆ど問題にされてこなかった。」と指摘する。

 このようにして,概ね習俗レベルでは死後に執り行われる葬送や墓については北川も指摘するように,依然として男女とも保守的である32)

△ Topへ

3.祖先祭祀の困難化とその多様な要因

 都市の家郷喪失者と定住地での社会関係の組み換え,墓に対する習俗的保守層のもつ潜在的需要について検討した。それでもやはり,墓の建造と維持管理は困難さを増しており,それを困難にする環境条件・多様な社会的要因を次に検討しよう。

 少子化現象は,高齢者の墓の維持管理や祖先祭祀の継承の問題と深くかかわっている。少子化がすすむにつれ自分の子に男子がいない高齢者の比率は高くなる。その上,わが国では祖先祭祀を行うのは男子のみという観念があるから,子が女子のみの場合,墓の維持管理や自分たちが祀られるための祖先祭祀の継承などを困難にしていく。であるから家墓も個人墓もつくらない自然葬を選択したいと考える人が増加する。他方,結婚してはいるが子どもがいない高齢者の場合も,未婚の高齢者の場合も,墓の扱いとして直系を重んじる慣行にしたがえば家墓に入るのは難しい。地域差もあるが,墓に遺骨・遺灰を入れるかどうかは,一般的には兄弟姉妹や甥姪の判断にゆだねられる問題だからである。

 核家族化の進行も,墓の維持管理を困難にするであろう。親子遠隔居住の一般化に伴って,3世代同居を経験する人々の割合が減少し,また「先祖霊」に対する高齢者世代の礼拝を目の当たりにする経験も減少する。このことは伝統的な祖先祭祀観念の希薄化を招くであろう。都市定住者の核家族率は相対的に高いが,墓の維持管理には大きく分けて二つの選択肢がある。家郷の地縁・血縁原理にもとづくつながりを重視して親の墓の管理を自ら,あるいは親族に依頼して行い,また自らも配偶者もやがてその墓に入る,というのが一つの選択肢である。もうひとつの選択肢は,故郷から墓を引き上げ,都市の定住地の墓地に永代供養権を確保し,その地に墓を改葬するという選択肢である。もちろん二,三男の場合は家郷にはもともと頼らず,自ら築いたネットワークのある都会で墓を創設することになるのである。後者が多いほど都市における墓需要を押し上げる。だがいずれの場合も不確定な要素が残る。というのは帰属階層にもよるが,日本社会において一般的となっている転勤システムが親子遠隔居住を運命づけているので,子や孫による自らの祖先祭祀は確実には期待できないと考えられるからである。

 伝統的な祖先祭祀習俗の維持を困難にする社会的要因として,過剰な営利主義を指摘できる。明治期にはすでに,有償で葬送サービスを請け負う専業者が都市に登場している。さかのぼれば都市でも近隣組織は葬儀の際の相互扶助機能を持っていたが,転居などによる移動性が高まるにつれて葬送儀礼で受けた労力への同等の返礼が困難になると予想されるつれ,金銭でサービスを業者から買うという選択肢を選ぶ傾向が都市で強まり葬儀専業者への依存が強まった。かつては集落・近隣の相互扶助を基調としてきた農山村の生活も貨幣経済の浸透にともない労力を貨幣で置き換える傾向が強まり,第一次葬を葬儀業者に依頼することが一般的になっている。緊急事態に応えるこのビジネスの世界においては,市場原理は作動しがたく,高度経済成長期における葬儀費用の高騰とその高止まりがみられ,たとえばアメリカにおける葬儀費用と比較して日本の相場ははるかに高いものになっており,それが葬儀ビジネスへの不信の根本にあるといえるであろう。

 次に宗教の世俗化とビジネス化について考察する。自然葬に人々が注目するようになった要因の一つとして,日本における既成宗教の世俗化・ビジネス化がある。自然葬を志向する人々の間では,第一次葬を請け負う既成宗教の世俗化,端的に言えば宗教のビジネス化に対する批判が強い。僧職の専業化・世襲化はそれの世俗化という事態を往々にして生み出す。しかもその寺と檀家の固定的関係は,サービスの対価が金銭的報酬の形で支払われる傾向や高い戒名料などとあいまって,関係の共同性を薄めていくのである。さらに寺院や霊園業者が経営する墓苑・霊園の墓地の購入費(正確には墓地の区画使用権の取得費と墓石の購入費)が多額の出費となることも,墓からの離反の背景としてある。「墓を買う」という言い方があるが,それは墓地の区画の所有ではなく,区画の土地使用権と墓石の購入の意味である。ところが管理料の滞納により権利を喪失することがあり,また改葬公告を子孫が見落とした場合,墓石も廃棄物として処理される。都市における墓地のそのような不安定さを知る高齢者は第二次葬の選択肢として自然葬を視野に入れるようになると考えられる。

 都市,特に大都市圏における墓地不足の問題は,人々の間の自然への回帰志向とも関連するが,人口の都市集中と定住化は,都市における墓地不足を深刻化させた。厚生省(現厚生労働省)の生活衛生局企画課内に1988年(昭和63年)に設置された墓地問題検討会は1990年(平成2年4月に出した中間報告のなかで,大都市地域における墓地不足の背景と墓地不足の状況を伝えている。これとの関係において1996年(平成8年)5月に総務庁行政監察局が出した「無縁墳墓の改葬に係る公告手続きの見直し(要旨)-行政苦情救済推進会議の検討結果を踏まえたあっせん-」は,改葬を通告する新聞公告の費用負担を墓苑管理事業者にとって軽減されるような手続き用件の緩和を求めている。

 要するにこの問題は二面性を持っているのである。すなわち墓地不足が都市,特に大都市で不足している一方で無縁墳墓の増加も著しいという二つの現実がそこから見えてくる。そこで当局としては無縁墳墓を速やかに撤去して「需給の不均衡」を緩和する必要があるという判断がそこにある。都市は,出身地の家郷の墓とは別に自らの代の墓を創設する「必要を感じる」段階にいたった都市移住者を順次抱え,墓地の需要を拡大していくと同時に,他方では核家族化の流れの中で,家族の小規模化,親戚づきあいの疎遠化に伴う無縁墳墓を増加させていくのである。

 自然への回帰志向に先行して,環境問題への関心の高まりが第一に挙げられる。今見たように,大都市圏の墓地不足は深刻な問題になっていることは,行政当局も認識するところであるが,「深刻」かどうかは,一家族一墓地を是とする限りにおいてその不足が「深刻」であるに過ぎない。墓に対する需要に応えようとする現在以上の墓地・墓苑開発は都市周辺の山々を際限なく削りとることにつながる。視点をかえれば,深刻なのは墓地不足ではなくて自然破壊のほうであるとも言える。実際問題として過去20年の間に,大都市圏の周縁の広大な面積の山や丘陵地が切り開かれて墓地が造成されていった。このような墓地造成にともなって自然破壊が進むにつれ,特に自然愛好者のあいだでは還るべき自然を回復したいという願いが広がっていったであろう。また,より一般的には人々の日常生活経験の多様化や,海外旅行熱のひろがりのなかでの異文化との接触は,他界観の多様な選択肢と他界イメージの空間的広がりを拡大していったことが当然考えられる。これに関しては今後の吟味が必要であろう。

 これまで検討してきたところは,伝統的な社会的紐帯の弱体化や消失による主として社会的家郷喪失者たちが自然葬運動の顕在的・潜在的賛同者であることを明らかにしようとした。これに対して,近接する過去の伝統的価値・規範から自由になった精神的家郷喪失者たちもこの市民運動の賛同者である可能性も指摘しておきたいと思う。精神的家郷喪失者がいかなる分布を示すのかは今後の分析に待つとして,ここではさしあたり,その理念型(モデル)を示しておきたい。その構成要素は第一に,精神的家郷喪失者は,都市住民のなかでも,地付きの都市住民(自分から数えて2世代以上前に都市定住をさかのぼることができる都市住民とする),あるいは家族の都市定住の年数は浅くても,伝統的な共同体文化を喪失している人々である。第二に,ただし単に喪失しただけではなくて,新しい都市的生活感覚と都市的生活様式を積極的に獲得している人々である。第三に,精神的家郷喪失者は,既存の近接する葬送習俗に対して自由に懐疑的になれる。第四に,これらの人々は多様な読書や,多様な交友,あるいは海外旅行や海外生活の経験を通した異文化体験を比較的多くもち,近接する伝統文化を相対化しやすい。だから伝統的な祖先祭祀に対して執着を持っていない。現実の諸条件にあわせて家伝統の祖先祭祀を改変し,あるいは廃止することができる。

 以上見てきたこれら二種類の家郷喪失者が祖先祭祀という,現代に近接する伝統文化に対して実生活のなかでどれだけ距離をとれるかという問題は,人々が社会生活のなかで取り結ぶ関係の観点から捉えなおす必要がある。次はそれを,「しがらみ」と「きずな」という二つの概念で試論的に捉えておきたい。

△ Topへ

4.「しがらみ」から無縁の縁へ

 「しがらみ」とは「他に選択肢がないと自覚される限りにおいて依存せざるをえない」関係のことである。この地縁・血縁原理による多面的ないし全人格的な社会的結合が個人にとって束縛と感じられるとき,それは「しがらみ」である33) 。「しがらみ」は「柵」とも書く。それは,一面においては共同体成員の安全,安定,利益を保証するしがらみでもあるが,他面において人が乗り越えて外の自由な世界に赴くのを妨げる「柵」でもある。人がしがらみを成員として維持する社会的・経済的資源を失うとき,あるいはしがらみが自らに対して何の安全も,安定も,利益ももたらさないと気づいたとき,しがらみは単なる過去の記憶となる。他方,共同体の側から見るならば,しがらみというものは,普遍主義的な価値基準からではなくて,成員が共同体の存続にとって利用価値のない存在かどうかという基準から判断されたとき,しがらみは断ち切る対象となる。そこにしがらみの人間結合としての弱さもある。

 「きずな」とは,選びとる関係である。きずなは都市的人間関係のなかだけに見出されるものではないが,都市的ネットワーク型人間関係のなかに多くが見出される。選択の原理は,自分の気持や好み,個人的利害への関心である。それはこのような関心に基づいて個人が自己の判断で選択的に作り上げる関係である。

 「すすめる会」への入会は,まったく個人的関心に基づいている場合がほとんどである。そこでは自己決定と自由が重視される。そこには自己決定を価値原理とする選択的共同性といえる関係性が存在すると考えることができる。組織への入会も,それからの退会も自由である。個人と組織とは契約を結び,個人と組織双方はその契約を履行することを期待されている。

 この非営利法人(NPO)「葬送の自由をすすめる会」は,東京に本部を持ち,その職員は会長を含め全員ボランティアの会員であり,常勤職員をもたない。他方,全国の地域ごとにブロック組織を持ち,これは支部と呼ばれている。支部組織は都道府県が単位となっている場合もあるが,いくつかの都府県をまとめて一つの支部組織をなす例もある。支部には支部長と事務責任者が配置され,またボランティアとして支部活動を担っていく会員が世話人会等を組織している。

 会への入会申し込みは,東京の本部が一括して受け付け,登録手続きを行っている。会と会員の一般的な連絡は基本的には会誌である『再生』を通して行われる。『再生』というこのメディアが全国に散らばる多数の会員を結びつけ,「きずな」を維持するうえで重要な役割を果たしている。

 毎年本部が主催してさまざまなテーマでシンポジウムが開催される。支部においても会員の交流会や非会員の参加も呼びかけるシンポジウムが開催されることが多い。支部におけるシンポジウムは会員や非会員からのさまざまな質問に答える場である。また,シンポジウムや交流会は「すすめる会」の理念や目標を確認する機会でもある。これらの活動も会員同士の「きずな」を維持する上で大きな役割を果たしている。

 自然葬には必ず「すすめる会」会員の中から「立会人」が選ばれることになっている。立会人に男女の区別はまったくない。自然葬は国内全域のほかに海外においても実施されるが,海外で実施する場合は,本部から立会人が出る。海外での実施例としては,インド,中国,モンゴルなどで行われた実績がある。

 会員であること以外に原則として担う資格を問われない立会人は,本部から発行される自然葬実施証明書を携えて,遺族とともに実施場所に行き,ふつう短い「無宗教の儀礼」を執行した後黙祷を捧げ,この証明書を交付することが最小限の役割である。立会人は現地での自然葬の実施方法の細部については,自然界のなかで分解されないものを捨てないという原則を遺族との間で確認するが,遺族自身が決定し,遺族が主となって実施する。立会人は,この実施を側面から補助するにすぎない。撒灰には子どもたちが参加することもある。自然葬の実施主体(主宰者)が,撒灰される故人の家族や親族でない場合もまれにある。たとえば故人が近親者を持たない場合など,生前故人と強い信頼関係にあった者が故人の遺志を実現するために遺族の役割を代行して自然葬を実施することもある。また,そのような縁者すら持たない人であっても,「すすめる会」と生前契約を結ぶことによって,将来における自然葬の実施を託すことができるし,生活保護世帯の人の場合は無料で実施される。

 いずれにせよ,第二次葬の現場での補助者としての立会人と自然葬の主宰者はともに対等の会員であり,会員になることを契機に結ばれた「きずな」の関係であるが,この事実を除けばもともと無縁であり,無縁でありながら会員の「きずな」を通してある種の縁,ある種の共同性の意味空間を維持しているのである。

 一般に自然葬の会員同士も「無縁の縁」によって結び付けられた人々である。同郷人でもなく同窓生でもなく,同一親族の一員でもなく,経済的利害を共有する人同士でもなく,取引先の関係でもない。同一宗教の信者であるがゆえに入会した人々でもなく,政治的信条や政党が同じであるがゆえに入会した間柄でもない。ただ,自然葬によって葬られたいと願う人々がたまたま入会して会員になっただけである。これを除いては関係を取り結ぶ機縁のない人々である。だから,もともとは互いに無縁の人々である。そこに新たな種類のネットワークが形成されてゆくのを見ることは非常に興味深い。それは,多様な社会的属性をもち,多様な宗教的・政治的信条を持つ人々が,「自然との共生」,「自然への回帰」という価値と世界観を共有するネットワークである。

むすび

 Ⅰ節の3の実例で見たように,自然葬に賛同する人々は,墓のために自然が破壊されることを残念に思い,むしろ自分の遺骨を自然に「還」してもらうことを希望している。自分の遺骨の行方に関心を持っているので,遺骨を山に撒くか海に撒くかはむしろ好みや原風景をもとに自分が選びとりたいと考えている。遺骨を単なる物質,燐酸カルシウムの塊とは見ていない証拠である。撒骨・撒灰の場は,魂がしばらくとどまるところ,やがて魂が自然のなかに,宇宙のなかに溶け込んでいく始発の場と表象されている。山の木の根元に遺骨・遺灰を撒けばそれは根から吸い上げられ,木の精になって木に花を咲かせ,死者はあたかも花と散り,地に舞い落ち,再び土に還り根から吸い上げられるものと表象される。それはいわば精気の循環である。

 また,すでに見たように注目すべきもう一つの事実がある。それは「再生の森」と呼ばれる自然葬地では家族でも親族でもない縁も所縁もない人々の遺骨・遺灰が同じ一本の木の根元に撒かれるという事実である。それは,家墓に人々が懐く祖先や家の個別性への拘りがなく,自然という「より大きな命」のつながりのなかに合流することにためらいが見られないという光景である。海での自然葬の場合も同様である。海に撒く遺骨・遺灰は波や海流に運ばれ,地球の海に拡散していくという信念である。ここでも遺骨・遺灰は単なる燐酸カルシウムの塊ではなく故人の魂のノリモノであるかのように表象され,しかも相互に排他的ではない。人々は言う。「世界中,どこの海でもあの人に会える」と。これを「自然」への回帰志向と呼ぶことができるかもしれない。このような「自然」は,私と故人である「あなた」にとっての個人的体験の記憶を折に触れて回想する磁場としての「自然」である。自然葬を志向する人々は,それでいて「自然」の懐に「還る」ことを希求する。それは家や個人の墓という個別の場を離れて,生命あるすべてのものの墓とも見える地球に還ることを人々は想像するのである。

 多様で,自由で,容量の大きい他界観を互いに認め合い,「無縁の縁」の人々が緩やかにかかわりながらすすめるこの市民運動は,個人と個人が,また個人と組織が平和な共生の方法を模索する未来への壮大な実験であるのかもしれない。 (了)


--------------------------------------------------------
01) このたび『再生』誌上に掲載されることになったこの小論は、、もと筆者である私が編者のひとりである『よき死の作法』(九州大学出版会、2003年)の中の、私が執筆担当した章に加筆修正を加えて短くした文章である。もとの文章は私の専門分野である社会学の論文として書いたものなので、たくさんの注釈をつけていたが、この小論ではその再録を最小限にとどめた。▲戻る
02) 日本では単墓制と,埋墓と詣墓を区別する両墓制のいずれかである。納骨堂に蔵置するのは両墓制の一亜種であると考えてよかろう。  ▲戻る
03) 場所を基準にすれば、自宅葬、葬儀堂葬、火葬場葬などがあり、主催者を基準にすれば、家族・親族葬、社葬・学校葬・政党葬などの組織葬、友人葬などがあり、宗教の関与の有無や種類を基準にすれば、宗教葬、無宗教葬がある。 ▲戻る
04) 『再生』第44号、2000年10月、23頁。ある女性は、「私は古い家の嫁として30数年いきてきてまいりましたが、因習や慣習そして宗教への不信もあり、自分の最後だけは自分の意志で自分らしく自然にかえりたいと思っていました。」と入会の動機を語っている。 ▲戻る
05) 旧刑法においても190条に同趣旨の条文がある。 ▲戻る
06) 1991年10月16日付朝日新聞は、同年10月15日に神奈川県相模灘沖で「葬送の自由をすすめる会」が海での自然葬を実施したことに対して、法務省公式見解として報道したものである。 ▲戻る
07) 同法は制定された当時、まだ火葬は一般的ではなかった。その間の事情については次を参照。八木澤壮一、「火葬技術の変遷と現状」、葬送の自由をすすめる会編『<墓>からの自由-地球に還る自然葬-』、社会評論社、1994、134頁。 ▲戻る
08) 柳田國男、「先祖の話」『定本柳田國男集第10巻』、筑摩書房、1969。 ▲戻る
09) 『再生』第39号、2000、18頁。▲戻る
10) 『再生』第39号、2000、18頁。▲戻る
11) 『再生』第25号、1997、12頁。▲戻る
12) 『再生』第43号、2001、9頁。▲戻る
13) 葬送の自由をすすめる会、「自然葬の記録第312回から354回」6頁。▲戻る
14) 同上、11頁。▲戻る
15) 同上、11頁。▲戻る
16) 『再生』第39号、2000、19頁。▲戻る
17) 明治期の土葬率の数値。▲戻る
18) 北川慶子、『高齢期最後の生活課題と葬送の生前契約』、九州大学出版会、2001、145頁。。▲戻る
19) 井上治代、「外国における自然葬」『<墓>からの自由-地球に還る自然葬-』、葬送の自由をすすめる会編、1994、149-174頁。▲戻る
20) 安田睦彦、「自然葬のすすめ」『<墓>からの自由-地球に還る自然葬-』、葬送の自由をすすめる会編、1994、5-20頁。▲戻る
21) 安田睦彦、同上書、5-20頁。▲戻る
22) 安田睦彦、同上書、5-20頁。▲戻る
23) 安田睦彦、同上書、5-20頁。高橋秀樹も、中世前期における氏的な継承原理をもつ家と嫡継承される家の並存を主張する論考の中で、例えば藤原経房によって1199年洛東吉田に建立された浄蓮華院には経房とその一家、さらにその傍系も含めた子孫の代々の墓が営まれていたことを明らかにしている。「中世前期の祖先祭祀と二つの「家」」、『親族と祖先』義江明子編、2002、164-192頁参照。▲戻る
24) 安田睦彦、同上書、5-20頁。この点については、竹田聴州が通説的な歴史像を相対化しながら近世における寺請寺檀制や墓の実態に迫った論考を参照するのがよい。「近世社会と仏教」、『親族と祖先』義江明子編、2002、193-205頁。これに関連した日本の民衆レベルでの墓の成立に関しては酒井卯作の「日本人の死生観と墓の成立」『自然葬のすすめ-地球に還る自然葬-』、1994、75-99頁が参考になるだろう。▲戻る
  25) 梶山正三、「葬送の国家管理と基本的人権」(葬送の自由をすすめる会編、『<墓>からの自由-地球に還る-』増補改訂版・社会評論社、1994年、21-48頁)。寺檀制度または寺檀制について野沢謙治・八木康幸が「江戸時代の祖先祭祀」(田中久夫編、『祖先祭祀の歴史と民俗』弘文堂、1986、185-240頁)において詳述している。▲戻る
26) 有賀喜左衛門、「社会史の諸問題」『有賀喜左衛門著作集、Ⅶ』未来社、1969、272頁。▲戻る
  27) 有賀喜左衛門、同上書、275頁。▲戻る
28) 有賀喜左衛門、同上書、27頁。▲戻る
29) 柳田國男、「先祖の話」、『定本 柳田國男集第10巻』筑摩書房、1969、11-12頁。▲戻る
30) 北川慶子、前掲書、196頁。▲戻る
31) 北川慶子、前掲書、196-197頁。▲戻る
32) 北川慶子、前掲書、197頁。▲戻る
33) 高 史明、『再生』25号、1997、8頁。▲戻る

--------------------------------------------------------
筆者略歴 たぐち・ひろあき。1944年に大阪府に生まれる。73年京都大学大学院文学研究科博士課程(社会学専攻)単位取得退学。現在、熊本大学文学部教授。2000年6月から2003年6月まで「葬送の自由をすすめる会」九州支部長。

 著書、論文に
『病気と医療の社会学』(世界思想社)、
「医療における不確定性と権力」~『社会学論集 持続と変容』(ナカニシヤ出版)所収、
「終末期のケア」~『ケア論の射程』(九州大学出版会)所収、
「自然葬と現代」~『よき死の作法』(九州大学出版会)所収など。



再生 第51号(2003.12)

logo
▲ top