自然葬と現代社会・論考など

自然葬とは  ─葬送基本法を考えるために─


                        田口 宏昭

    はじめに
    1.考え方は多様であってよい
    2.遺体処理の二つの段階
    3.土葬における第一次処理と第二次処理
    (1)遺体の第一次処理としての土葬
    (2)土葬における遺体の第二次処理
    4.風葬における第一次処理と第二次処理
    (1)遺体の第一次処理としての風葬
    (2)風葬の第二次処理
    5.鳥葬における第一次処理と第二次処理
    6.水葬における第一次処理と第二次処理
    7.第一次処理としての火葬と多様な第二次処理
    8.自然葬とは何か
    むすび

はじめに

 映画の題名は忘れたのですが、およそ四十年前に見た映画─たぶんフランス映画─のラストシーンを私は思い出しています。若い親友同士の男性が一人の女性を愛して、三角関係ができてしまうのですが、最後に片方の男性と女性が心中を遂げて三角関係は解消します。残された男性は自分の親友と恋人の葬儀を村の教会で済ませ、火葬後に遺灰を携えて村の小川にかかる跳ね橋─ゴッホの絵に出てくるような─の上に立ち、真っ青な空を映す静かな川面に振りまくのがラストシーンです。とても美しいラストシーンでした。  筋立ては単純な映画ですが、そのラストシーンが絵のように美しい風景とともに、静かな余韻をいつまでも心のひだのなかに届けつづけるような映画でした。わたしが人間存在の最終段階の処遇のあり方として、散骨(散灰)というのを知ったのはこのときが最初です。
 この映画が製作された時代のフランスの火葬事情について私は不案内なので、確かなことは言えません。そのことを大目に見ていただくとして、もしカソリックの葬送の基本原則が当時も土葬であったとしたら、男女の三角関係を当事者が相互に承認し合うという人間関係の設定とともに、散骨はカソリック文化に対する映画製作者の挑戦状を突きつけるという意味を持っていたのかもしれません。
 「葬送の自由をすすめる会」が「自然葬」の提唱と相模灘での散骨を果敢におこなったとき、それが当初、日本社会のなかに大きな波紋を引き起こしたのでした。あれから25年の歳月が過ぎ去りました。この間、この会の積極的な広報活動や自然葬の実践の成果が上がり、《遺骨は墓に》埋蔵するという思い込みにもとづく旧来の常識を打ち破るもう一つの常識─散骨によって遺骨を自然に還すというあたらしい常識─が多くの市民の賛同を得られるようになりました。今や散骨は第二次葬における有望な選択肢の一つとして日本の社会のなかで市民権を得たように思われます。
 しかしながら楽観はしていられません。なぜかというと、会のなかで数年前から草案が準備されようとしている「葬送基本法」の実現の道のりは未だ遠く、他方では散骨を条例で規制しようと試みる自治体があらわれたからです。しかも本会の内外において「自然葬」という言葉の意味をめぐって、あいまいさがむしろ増し、また混乱が見られるようにも見受けられるからです。 
 実際、巷では、樹木葬という言葉が考案され、樹木葬も自然葬だという受け止め方が、この会の発足当初には想像もできなかったような幅広い支持を受けるようになっています。その結果、寺院や民間業者の方々が、ビジネスの一つとして樹木葬需要に応えようとして有料の《樹木葬サービス》の提供事業に乗り出しています。
 このような事情にかんがみて、いまいちど「自然葬とは何なのか」という問いにこだわってみたいと思います。そこでこれまで会誌『再生』において提供された記事内容も大いに参考にし、また私のフィールド調査を通した見聞も踏まえつつ、できるだけ事実に即して多種多様な葬送の在り方を整理してみたいと思います。
 この整理の作業を通して、私自身のなかでぼんやりしていた「自然葬」という葬送の在り方が、大げさに言えば人類の、あるいは控えめに言えば日本社会の葬送文化の《全体地図》のどこに位置づけられそうなのか、その見当がつきかけてきたような気がします。  この作業が、会員のあいだで行われる議論のすれ違いや、議論のあいまいさをすこしでも少なくする一助となれば幸いです。
▲ top

1.考え方は多様であってよい

 私たち会員のあいだでは、「自然葬」といえば海や山への「散骨」だ、という理解がながい間に定着してきました。
 この間に「一握り散骨」が会員のあいだから提唱されたこともありました。「一握り散骨」は山道をあるく道すがら、袋に入れた骨粉を撒いていってもよいのではないか、という考え方です。これも自然葬と考えられそうなのですが、提唱されたころは賛同する会員もあれば反対する会員もありました。「一握り散骨」という考え方は、墓の維持に苦悶する現代日本人に、自前で自然葬をおこなう簡便な方法を教えるものですから、一つの妙案に違いありません。わたしもそう思いました。
 けれども、よくよく考えれば、次のような異論も生じてくる可能性があります。道すがら撒かれた遺骨は、後々その道を通る人から「踏みつけられる」可能性は大きいのです。
 もし遺骨が単にモノではないと考える人にとっては、それは死者の尊厳を守りたいという気持ちからは耐え難いことであるかもしれません。しかし、「親父は好き放題に生きて、私たちにはさんざん苦労をかけた。かわいそうでもあるが憎らしくもある。」と感じる家族の一員がいるかもしれません。そのような家族から見れば、死者の尊厳は割引されて、「他人様の土足で踏みつけられてちょうど本人も罪滅ぼしになる」くらいに思われて「一握り散骨」は大いに許容されるのかもしれません。いずれにせよ、会員であってもこの提案に対する評価は、人によりさまざまでしょう。
 また近年は「ゼロ葬」という考え方も提唱されました。「ゼロ葬」は火葬場に遺骨をもち帰らずに置いてきてもよいのではないか、という考え方です。一方では賛同する会員がいる反面、他方では反対する会員も少なからずありました。
 「ゼロ葬」において火葬場で職員に委ねられた遺骨は、ゆくゆく山か海に産業廃棄物として投棄されます。「ゼロ葬」でなくても、関西地方では確かに遺骨のおそらく三分の二以上は産業廃棄物として処理されています。残り三分の一を遺族はもち帰るのですが、産業廃棄物として処理される三分の二との間で、遺骨そのものに質的な区別があろうはずがないと考える人もいます。
 しかしあると言えばあるのです。その秘密は《ノドボトケ》にあります。火葬場の職員は骨拾いに来た遺族に箸を手渡して炉台のお骨を拾うように促します。遺族がお骨を拾って骨壺に入れる作業(儀礼)が一巡すると、今度は職員が炉台から《ノドボトケ》を手際よく探し出し、それを持ち上げながら「これがノドボトケです。」と言いながら、神妙な顔つきで一同に示し、骨壺に埋まった骨の一番上にそれを置きます。これで骨拾いの儀式は完了です。この儀式によって《ノドボトケ》と一緒に骨壺に入れられた遺骨は、炉台に取り残された三分の二の遺骨からいわば《聖別》され、「特別な遺骨」と定義されるのです。これはマジックのようなものですが、それに疑問をさしはさむことは許されないのが現実です。この瞬間に、炉台の遺骨は格下げされるのです。
 しかし全くのモノに格下げされるのでもないようです。注意深く観察すると、火葬場には意味深長な仕掛けが用意されています。骨拾いで取り上げられなかった遺骨が、まるでゴミを捨てるように廃棄されるのではありません。私が観察した大阪府高槻市営の山際にある火葬場では、火葬場の広場の一隅に屋根瓦ののった礼拝所が設けてあり、その礼拝所からほんの数メートルさきに、瓦をのせたコンクリート製の小さな門構えが拵えてあります。たまった遺骨は、この礼拝所での何らかの儀礼(おそらく職員が中心となって執行する儀礼)を経て、この門構えのあいだから、その先の山の斜面に押し出されるという仕掛けです。
 実際覗いてみると、斜面は遺骨だらけでした。わたしは職員に尋ねてみました。「ここが満杯になったらどうするのですか。」と。すると職員は谷向こうの小山を指さして「谷が埋まるまでは相当年数がかかりますが、ゆくゆくはあちらの山に」と答えました。このように、少なくともこの火葬場に関しては、遺骨が象徴する死者の尊厳を保つ形で残骨の処理が行われています。もちろんこれは一例にすぎず、ここまで丁寧な扱いをしていない火葬場が、同じ関西にあるかもしれません。死者の尊厳を保つ仕掛けの有無はさておいても、遺骨が廃棄される場所が山や海という《自然》界ならば、広い意味では「自然葬」と言えるのかもしれません。
 ここでもう一歩考えを進めてみましょう。「ゼロ葬」では遺族は遺骨を引き取らないのですから、理屈のうえでは、火葬場で一般的に行われている別れの儀礼は必ずしも必要ありません。さらに踏み込めば、息を引き取って以降の遺体はただのモノだと見なした場合、場合によっては火葬場までの遺体の搬入そのものも葬儀業者に依頼して終わり、ということもあり得ます。そうなると死者の尊厳(もしあるとすれば)にどう向き合うかという議論は、会の内外において《一波乱》だけでは済みそうにありません。
ときどきに行われたこのような提唱、提案について、これ以上、内容にたちいった議論は、本稿の目的からは外れるのでこれくらいにしておきます。しかし、「葬送の自由」という会の設立の趣旨からいって、ここで確認しておきたいことがいくつかあります。一つは会員相互のあいだで自由な意見の交換が行われるという原則です。もう一つは相手の意見に真剣に耳を傾ける(これは必ずしも同意を示すことではない)寛容さを保つという原則です。
 もしこの持ち味・原則を失うならば、本会は「葬送の自由」の看板を下ろさなければならないことになるでしょう。会員はそれぞれ、かけがえのない個性的な人生を積み重ねてきています。それに応じて人間の死生観、遺骨観、さらには世界観など異なっているはずです。 
 ただ一つの共通点があるとすれば、それは自分の遺骨が死後墓という人工物のなかに閉じ込められることを何としても避けたいという思いです。  会員の意識・意見を一つに束ねてしまわないこと、言い換えれば意識・意見の多様性を保ち続けることが大切だと思います。それは組織の運営上では、組織の一体感を生み出しにくいという面を確かに持っています。しかしこの多様性を保ち続けることは、長い目で見た場合、組織の活力の維持・発展にとって必ずしもマイナス要因ではなく、むしろプラス要因となると私は考えています。
▲ top

2.遺体処理の二つの段階

 私は本会の一会員にすぎないものですが、意識・意見の多様性を尊重するという立場を最大限守りつつ、広い視野から人間の死のあと始末について考えてみたいと思います。大風呂敷の感は否めませんが、一会員の素朴な見解に、もし不行き届きの点があれば、どうかご寛恕を願う次第です。
 本誌の読者のなかには、それぞれの知識領域の専門家も数多くおられるので、門外漢の私が大風呂敷を広げると失笑を買うかもしれませんが、あえて大風呂敷を広げるというパフォーマンスを演じることをお許しください。
 ミルチャ・エリアーデや柳田国男などの著作が私の頭のなかをよぎるところですが、およそどの時代のどの社会も、人の死後の遺体について、一定の観念ないしイメージをもっています。そしてその観念ないしイメージはそれぞれの民族や部族などの宗教的世界観や宗教儀礼と深く結びついてきました。このことを前置きとして話を次にすすめます。  それぞれの社会では、人が死ぬ(伝統的な社会では眼が閉じて再び開かない、呼吸が止まる、心臓が止まること)と、遺体を何らかの方法で処理し、生きているものの世界から分離する手続きをとります。少し味気ない言い方になりますが、それを「遺体処理」と呼んでおきます。この遺体処理を、第一次処理と第二次処理とに分けましょう。
 まず、第一次処理について考えてみます。文化人類学者たちが調査の結果明らかにした世界の葬送文化の知見をもとにして考えますと、世界で知られている第一次処理法を並べてみますと、土葬、風葬、鳥葬、水葬、火葬となります。これらは同時代並列の葬制ではありませんが(注)、 いくつかは併存する文化でもあります。
 これら各々に対応して第二次処理が続きます。例えば私たちの「葬送の自由をすすめる会」で行っている散骨は遺体の第二次処理ですが、広く見渡してみると、火葬後の遺骨の第二次処理そのものは多様です。これもふくめ、以下の記述においては、土葬、風葬、火葬等々の第一次処理の内容を紹介しつつ、併せて個別の第一次処理に対応した第二次処理の細分類を試みたいと思います。
▲ top

3.土葬における第一次処理と第二次処理


(1)遺体の第一次処理としての土葬

 土葬については会員の方々のあいだでも、子ども時代は自分の町や村でも土葬だった、と記憶しておられる方も少なくないかもしれません。わたしも40数年前(昭和40年代)に京都の山村の墓地で親戚の人の土葬に立ち会いました。
 その様子は次のようなものでした。葬家から担ぎだされた遺体は野辺送りの葬列に守られながら、山道を登ること200メートル、木立が抜けて青空が見える山中の墓地に運び込まれました。墓地の入り口に立つと左半分に墓石が並ぶ区画があり、右半分に山土の露出した平地の区画がありました。平らにならされた地面の一角を、その日の墓堀り担当の村人数人が、人の背の高さと同じくらいの深さまで掘りすすみます。すると頭蓋骨や手の骨、足の骨がゴロゴロ出てきます。そして、男手4人がかりで棺を寝棺のかたちで底までロープで降ろして安置し、それから土を埋め戻すのです。そのとき居合わせた人々はみな無言で、「聖なる」空気が、静寂のなかに漲っていました。今でもその経験は映画の一場面のようによみがえってきます。それは日本民俗学の世界では「両墓制」と呼ばれている形式の葬制の現場であったことを後で知りました。両墓制の型式の墓は畿内地方で多く分布しているらしいです。
 このような土葬は昭和40年代後半においても、地方の農山村において相当残っていました。関西出身のわたしは昭和48年から九州に住んでいますが、その年に出会った熊本県天草郡下島の某村(その町にある断崖絶壁の海岸から天草灘に沈む夕陽を眺めて、江戸時代の漢詩人、頼山陽がその絶景を詠んだことで知られています。)出身の若者が、話の流れのなかで葬送のことに話題が及んだとき、私にこっそり教えてくれました。「ぼくの村では実は土葬です。」わたしはそれを聞いてもそれほど珍しがりもしませんでしたし、驚きもしませんでした。
 それから数年後の昭和51、2年ころ、熊本県菊池郡の菊池台地と呼ばれている場所の一角(大津町と菊陽町の境目当たり)を車で移動中に偶然、両墓制の墓地を発見しました。未舗装道路の脇に、外部からの目を遮蔽するかのような仕立ての植込みがありました。この植え込みのつづきに、大人が両手を広げたくらいの幅の切れ目があり、そこからなかを覗きました。すると昼なお暗い森のなかの整地された相応の広さの平地に、野辺送りに用いたと思われる屋根付きの神輿が、新旧いろいろ横たえられていたのです。もしこれが両墓制の「埋墓」だとすれば、「詣墓」はこの近くの集落のいずこかにあるはずです。このときはただ道に迷い、通りすがりに偶然出くわした光景であったので、詣墓まで確かめずに、数分ばかりこの埋墓を検分しただけでその場を立ち去りました。
 しかし、それ以降も社会の変化は激しく、20年もたたないうちに地方都市でも、さらには中山間地農村でも土葬が激減していきました。そのような移り変わりのなか、九州の中央部の山間地で土葬に立ち会いました。平成3年のころです。わたしは球磨郡相良村の、私の知人でもある医師の経営する診療所と診療所附設の介護施設を所用で訪れました。そのとき施設長から「昨日施設で亡くなった入所者がおられます。今から、その方の、めずらしい葬儀に出る予定です。よかったら一緒に行ってみませんか。」と誘われ、二つ返事で車に乗り込みました。
 渓谷の流れの瀬音がはるか下のほうから聞こえてくる細い山道をおよそ40分も辿り、行きついたところは、海抜1000メートル近くもあろうと思われる山間僻地の小さな集落でした。農耕用の牛を飼っている農家がその日の葬家です。牛小屋の端には真新しい竹を細工した野辺送り用の道具がすでに立てかけられていました。そして台所では、近所の農家の女性たちが白いエプロン姿で炊き出しをしていました。僧侶の読経、焼香とつづき、いよいよ墓地に向けて出棺です。墓地での埋葬の様子についてここでは説明を省略し、読者のご想像に任せます。
 土葬は、「珍しい葬儀」と施設長が言うだけあって、この山間僻地でも当時すでに稀なものになっていました。当時ですらそうでしたから、今日ではよほど山奥でもない限り土葬に行き当たることはなく、火葬が当たり前のようになっています。まさに隔世の感です。
▲ top

(2)土葬における遺体の第二次処理  土葬における遺体の第二次処理を、「土葬A」と「土葬B」という二つのタイプに分けることができます。「土葬A」は、いわば「純土葬」と言えるもので、第二次処理をしません。遺体を埋めたら埋めたきりで、遺体は土中で腐敗して土に戻っていきます。遺体を安置した穴のなかに土を埋め戻し、盛土の上に加工しない自然石や木簡を立てて済ませるような古い時代の簡素な埋葬では、第一次処理と第二次処理の区別を見出すことはできません。上に述べた両墓制においては、「埋墓」と「詣墓」を用いますが、そのうちの「埋墓」がそれにあたります。「埋墓」から「詣墓」へ骨を移すことはふつう行われないので、骨は土中にそれっきりで、新規の墓堀りの際に、土中から掘り出されてまた埋め戻されるだけです。やはりそこには遺体の第一次処理と第二次処理の区別を見出すことはできません。
 これに対して「土葬B」は弥生遺跡などでみられる、甕棺のなかに遺体を折り曲げて埋葬する埋葬法がそれにあたります。私は佐賀県の吉野ケ里遺跡(国指定史跡)で甕棺を見たことがあります。甕に入れられたままなので遺体の腐食は純土葬の場合よりも緩慢にすすみます。直に土に触れて腐食が比較的速くすすむ「土葬A」とくらべると、甕棺という、いわば排他的な「納骨施設」が土中に設けられている点が異なります。
▲ top

4.風葬における第一次処理と第二次処理


(1)遺体の第一次処理としての風葬

 風葬をご存知でしょうか。これについては、その方面の専門家であられる酒井卯作氏がすでに『再生』第100号収載の「山とお墓の物語り」に詳しく書かれているので、まだお読みでない方はぜひ一読してください。
 その上で私がここで風葬のことについて述べるのは蛇足の感が否めません。にもかかわらず私自身がここで風葬を取り上げるひとつの理由は、本稿の構成上取り上げないわけにはいかないという事情があるからです。もう一つの理由は12年前から6年前くらいにかけて鹿児島県の沖永良部島、沖縄県の沖縄本島や西表島やその他の島々で実地検分した経験があり、そのときの経験談を読者の皆様にぜひ聞いてもらいたいという理由です。
 私が見るところでは、もはや風葬は地域社会のなかでしっかり根を下ろし不動の地域文化であり続けている伝統であるとは言えません。むしろ社会の急速な変化のなかで、風葬という文化は大きな変貌を遂げ、別の文化にとって代わられてきた、あるいはとって代わられつつあります。それを目撃することは風葬文化の現場を目の当たりにする貴重な経験でした。
 私が風葬の現場にはじめて出くわしたのは12年ばかり前のことです。沖永良部島の知名町の屋子母(やしも)という地区の海辺屋子母海岸をたった一人で歩いていて、弓のような形をした小さな墓地を見つけたのがきっかけです。
 この地区の(おそらくこの島の)伝統的な風葬は洞窟と墓地がセットです。人が死ぬとその遺体は、葬家での一連の葬送儀礼を経て、野辺送りで洞窟に運ばれ安置されます。洞窟は海辺にあることもあれば、海と集落から離れた場所にあることもあります。この集落の風葬の場合、洞窟は海辺から1000メートル足らず島の内陸部に入ったところにありました。それは小山の駆け上がりにあって、草で覆われて入口が見えにくくなっていました。住民の話によれば、洞窟に安置された肉親の遺体が変化していく様子をこの目で確かめるために、遺族は野辺送りののちしばらくのあいだは、毎日そこに通うのだそうです。
 このことは、土地の人びとが人の死を一瞬のできごととは考えていなかった証拠です。風葬においては、人の死はゆっくりと進行します。場合によってそれは、進んだかと思うと戻ることもあります。もちろん遺体の腐食は季節による緩慢の差はあっても、自然の法則に従って一方向に進む変化です。したがって死が行ったり来たりする変化自体は、遺族の心のなかで死者への愛惜の感情の振幅とともに起こっている変化に違いないと私は想像するのですが、いかがでしょうか。
 遺族は、このようにゆっくりと進行する死を、日々の遺体の観察を通して実感するのですが、遺体は内陸の洞穴に横たえられる場合は風雨にさらされ、海辺の洞窟に横たえられる場合には海水に洗われ、衣服と共に風化していきます。このような一連の過程が風葬の第一次処理です。そしてこの一次処理にほぼ3年を要します。
▲ top

(2)風葬の第二次処理
 ここでふたたび屋子母の墓地の話に戻ります。その弓型の墓域では家ごとの墓地が、ほぼ正方形のかたちに仕切られていて、ある家の墓地でわたしは跳び上がらんばかりの、というより本当に跳び上がる体験をしたことがあります。
 そこでまず目を見張ったのは、あつく敷き詰められた珊瑚の真っ白い砂でした。そしてこざっぱりとした、この清潔感溢れる墓地にそっと足を踏み入れた次の瞬間、わたしの目に飛び込んできたのは、海風にすっかり風化しているため、刻まれた文字も判読しかねるという体の、細い、いかにも細い縦長の墓石でした。
 さらに目を凝らすと、背後の珊瑚の白砂の上に、鮮やかな鳶色をした大きなすり鉢らしきものがかぶせてあります。すぐそばまで近づいてたしかめました。やはりそれは「すり鉢」でした。わたしは右手でぐいとその底をつかみ、勢いよく持ち上げました。
 そのとき私の目に飛び込んできたのは人の髑髏、「されこうべ」だったのです。その眼はこちら―つまり海の方角(これには意味があります)―をじっと見ていました。私はそのすり鉢を危うく落としそうになるのをこらえながら、ほとんど反射的に元の位置に戻すと同時に思わず斜め後ろ方向に跳び上がりました。
 しかしはげしく脈打っていた動悸が落ち着いてくると、確かめておきたいという気持ちになって、もう一度そのすり鉢に近づき、今度はゆっくりと持ち上げ、丁寧にすぐわきの白い珊瑚の砂の上に置きました。
 一点の汚点もない、美しい髑髏だと感じ、自然葬を希望しているわたしでさえ、思わず我を忘れて見入ってしまうほどでした。髑髏は首まで埋められた大きな甕のなかの一番地表近くにおさまっています。顔を近づけ覗き込んでみると、甕の底には足の骨が、その上には脛の骨が、その上には骨盤が、さらにその上にはあばらの骨、腕の骨というふうに順序良く、いかにも丁寧に死者の一体分の骨がすべておさめられているのです。髑髏をしげしげと眺めていると、死者が己を主張しながらそこに鎮座しているという趣がありました  しかし時代の変化の波はこの島にも否応なくおし寄せていました。この町の他の地区では本土並みの型式の墓が出現し、そこに移行するまでの亀甲墓も残っていました。大きく分けると三つの型式の墓が、当時、この小さな島で併存している状況でした。わたしが目撃した風葬の髑髏は、この島の古い時代の変化の最後のかたちになるかもしれません。  私が目撃したのは、風葬のおそらく最後のかたちと考えられるのですが、ともかくも沖永良部島の墓地で見た髑髏は、まさしく風葬の第二次処理の結果でした。
 風葬において遺体の第二次処理は次のように行われます。野辺送りによって洞窟に横たえられた遺体は、およそ3年経過すると有機質の肉の部分は腐敗し、風化して元のかたちを保たなくなります。このころ遺族たちは日を決め、時間をかけて、こびり付き残っている肉片を念入りにはがしながら水で遺体を丁寧に洗います。この過程で骨はみなバラバラになりますから、それを足の先の骨から順に甕のなかに納めていくのです。足の先から順に骨は収められ、一番上には頭蓋骨が置かれます。奄美大島以南の、沖縄本島、宮古島、八重山の島々を含む地域の旧琉球文化圏にある島々では、一体分の遺骨の納まった甕を地中に埋める、横穴のなかに置く、あるいは亀甲墓の内部の棚に置くなどの方法がとられます。相互に違いはありますが、それらは何れも風葬につづく遺骨の第二次処理には違いありません。
 ここ以外にも風葬が「遺跡」として残されている場所があります。例えば沖縄本島の中部の名護市より少し北に位置する今帰仁村の風葬跡です。風葬跡といっても、海に面した垂直に近い崖にくりぬかれた横穴に板囲いされた風葬の現場です。そこの一部の横穴墓では甕におさめられた死者の遺骨を実物のまま観察することができます。
 沖縄県の八重山郡竹富町の一角を占める西表島の祖納(ソナイ)という集落の崖にもこのような遺跡があります。崖の前は水田です。その崖の面に向かって垂直に掘りぬかれた奥行きのある横穴は、分厚い石製の蓋で閉じられていて、蓋に開けられた縦長のくりぬき穴から内部の様子をうかがうことができます。多くの横穴墓のほとんどが今では廃墟と化していましたが、一つの横穴だけは未だに墓参りが行われている痕跡がありました。風葬の最も古い形を遺しているのがこの西表島の風葬現場であると推測します。
 以上から風葬の第二次処理の内容に応じて、次のように三つに分類してみました。遺体を所定の場所において立ちさるだけの風葬を風葬A(純風葬)と呼んでおきます。これは風葬のなかでも最も古い型のものだと思われます。これに対して風化した遺体を遺体の第二次処理として洗骨し、その骨を甕棺や厨子を地上の横穴等に安置するような風葬を風葬B(地上型甕棺葬)、容器ごと地中に埋める風葬を風葬C(地中型甕棺葬)と呼んでおきます。
▲ top

5.鳥葬における第一次処理と第二次処理

 次に鳥葬ですが、鳥葬はチベットのそれがよく知られています。死者の遺体が、高原にある定められた葬地に野辺送りで運ばれたのち、そこに横たえられます。これが鳥葬における遺体の第一次処理です。野辺送りに参加した人々は立ち去ります。それまで大空を旋回していた鳥たちは、舞い降りてきて死者の肉をついばむのです。これが鳥葬における遺体の第二次処理であり、自然界の生き物たちがこの第二次処理を担当していると言えます。  第二次処理を意味するこの光景は異文化の人間から見れば残酷に見えますが、当該の葬送文化においては、死者の魂を天上の世界に運ぶ最も正しい葬法なのです。土地の人びとの間では、鳥は天から遣わされた使者ですから、死者の魂の運び手と見なされています。  では死者の遺骨はどうなるのだろう、という疑問がわいてきますが、遺骨には人々の関心はなく、執着もありません。それは放置されたままで大自然のなかで石ころや土と一体化していくのです。まさにこれも自然葬です。文化によって遺骨に対する人間の感情や観念がこんなにも違うのかと驚嘆させられます。
▲ top

6.水葬における第一次処理と第二次処理

 次に水葬の話をします。水葬の話は九州支部の会員の河原畑義尚氏から聞いたものです。同氏とは自然葬の立会人として共に働いたり、支部の勉強合宿で一緒になったりしました。その際わたしは同氏からいろいろなことを学びました。河原畑氏は現役時代、外洋船の船員として数十年の職業生活を送られた経験豊富な方ですが、阿蘇で九州支部の会員合宿をしたとき、航海中に人が死んだときは水葬にすることを教えてくれました。乗組員が協力して葬送の儀礼を船上で済ませたのち、遺体を海に流すのだそうです。同氏はその様子を感動的に話されました。そのとき同席していた、当時は宮崎県在住の年配の女性会員も、自分が長いあいだ生活していたドイツ北部での水葬の例を披露してくださいました。
 水葬の場合、遺体に特別の処理は施されず、筏に遺体が固定された状態で海上に降ろされます。そして弔いの船笛に合わせるようにして静かに海流に乗せられるのです。これが水葬における遺体の第一次処理です。第二次処理は人間に代わって、海中の生き物たちを含め、海の全自然が第二次処理を担当します。
 水葬において注目すべきことは、遺骨は回収されないということです。その代わりに若干の遺品もしかすると遺髪などが遺族のもとに届けられることになるでしょう。広い意味では水葬もれっきとした自然葬なのです。
▲ top

7.第一次処理としての火葬と多様な第二次処理

 明治時代の到来前から、遺体の第一次処理としての火葬が日本の一部において行われていましたが、火葬が本格化するのは明治維新以降のことです。大都市から順次地方に普及していき、今日では99パーセント以上の火葬率です。現代の日本人は第一次処理としての火葬を済ませ、手元に残った遺骨をどう扱うのかという遺体の第二次処理の課題に向き合っています。「葬送の自由をすすめる会」が推進してきた海山への散骨も、近年寺院や民間業者がビジネスとして参入している樹木葬や海洋葬も、さらには本会で近年話題になったいわゆるゼロ葬も、すべて火葬後の第二次遺体処理の方法です。
 火葬後の第二次処理の方法は、考え方としては大きく二つに分けられると思います。墓埋法との絡みで言うと、焼骨を①地表に撒き、しかも何ものによってもそれを覆わない場合と②焼骨を地中または地表の墓石の内部に蔵置(埋蔵または埋葬)する場合との二つです。
 まず①ついて考えますと、この方法は焼骨を粉砕加工して微粒粉状等にし、それを山野、ブッシュ(やぶ)、芝地、河川、海洋、空中などに撒布する方法です。これは三つのタイプに分類できます。第一のタイプとして、散骨する場所が特定されている散骨法を散骨葬A(特定散骨葬)と呼んでおきます。たとえば本会のように山の自然葬地で散骨する場合は場所が特定されるので散骨葬A(特定散骨葬)とみなします。第二のタイプとしてそれが特定されていない散骨法を散骨葬B(非特定散骨葬)と呼んでおきます。たとえば「一握り散骨」では散骨の場所が特定されないので、散骨葬B(非特定散骨葬)とみなすことができます。いずれの場合もそれなりの手間がいります。
 これに対し、近年、本会で話題になったゼロ葬は、その手間をかけずに、火葬場の職員に遺骨の処理を任せる第三の方法です。その場合、遺族は遺骨を火葬場からまったく持ち帰らず、最終的には遺骨の全量が産業廃棄物として処理されます。遺族には遺骨の処理をめぐる手間はまったく必要ありません。
 さらに、前例はありませんが、火葬場の職員の手間さえほとんどかけずに、遺体の後処理を徹底する方法があります。火葬場の炉の温度を思い切り高温に設定するのです。すると、遺骨が固形物として炉台に残らない状態になります。これは「究極のゼロ葬」です。  いずれにしても、私たちが遺体・遺骨を霊魂の抜け殻、単なる物体と見なすのかどうか(遺体観・遺骨観)という点に、火葬を前提とした第二次処理の複数の方法のうち、いずれを選択するかという問題がかかっていると考えることができます。「葬送の自由」という考え方を堅持する限りは、会員の内部での考えや思いの多様性を許容しなければなりません。なぜなら、自由は、各自が自分の意見を表明しつつ互いの多様な考え方・思い・感情を認め合うところにこそ根拠をもつ価値であるからです。
 ②は二つのタイプに分類できます。人間の遺体を忌むべきものとする観念の延長上にあって、遺骨を、人の視界を遮ることのできる空間に蔵置する方法がとられます。これには二通りがあって、一つは大地に穴を掘り、その穴に焼骨を投入し、土をかぶせ、その穴に樹木を植えるという方法です。これが樹木葬と呼ばれている方法です。もう一つは遺骨を墓石内の骨室に蔵置する方法で、これを墓石葬と呼んでおきます。
 後者において遺骨は「聖なるもの」へと変容し、礼拝の対象となります。遺族は遺骨に死者の霊がのりうつり(遷移し)、そこで骨霊が一体となったと信じます。遺骨が墓の骨室に納骨されると、死者が死後に棲む家としての墓に「詣る」という行為を、遺族も知己もなすことになるのです。信じる人々にとって墓は《死者の家》なのです。
 多くの人びとが「死後に住む家」と信じているこの家は、想定されているほど堅固でも永遠でもない住処ですが、多くの人びとが死後の安らぎの住処だと信じたがっているということは事実であって、むやみには否定できません。けれども私たち「葬送の自由をすすめる会」の会員は、専有的で排他的なそのような住処を求めない、ということで考え・思い・感情を共有しているのです。
▲ top

8.自然葬とは何か

 以上述べたことをここで簡単に振り返ってみます。
 文化としての人の遺体の処理を、第一段階(第一次処理)と第二段階(第二次処理)とに分けることができます。第一段階の遺体処理の方法は地球規模でみると土葬、風葬、鳥葬、水葬、火葬の5つに分類できます。第二段階としての第二次処理の方法は、第一段階の分類のそれぞれについてさらに細分類を施したものとなります。
 土葬の第二次処理の細分類は土葬A(純土葬)、土葬B(甕棺葬)、土葬C(墓石葬)の三つ、風葬の第二次処理の細分類は風葬A(純風葬)、風葬B(地上型甕棺葬)、風葬C(地中型甕棺葬)の3つです。
 鳥葬は第二次処理においては自然界の生き物や物理化学現象に任せますが、第一次処理と第二次処理は外見的には同じです。水葬についても第一次処理と第二次処理の関係は鳥葬の場合と同じです。
 最後に火葬の第二次処理の細分類は散骨葬A(特定散骨葬)、散骨葬B(非特定散骨)、「ゼロ葬」、樹木葬ならびに墓石葬の5つです。これらを合わせると、遺体の第二次処理の方法は全部で13通りあることになります。
 ここで注意すべき点は、自然葬というカテゴリーが遺体の第一次処理の他のカテゴリーと横並びになるのでも、また第二次処理の他のカテゴリーと横並びになるのでもないということです。遺体処理の一定の方法が自然葬であるのかそうでないのかは、別の判断基準を持ってこなければなりません。
 わたしたちのこの身体が、大いなる存在の計らいによってこの世界に現れたと見るのか否かについては、会員のあいだでもそれぞれの考えがあると思われます。が、少なくとも自然の素材をもとにした自然の大いなる営みのなかから産みだされた身体を、自然の生命循環のなかに還す、あるいは自然に還すという考え方については、ほぼ例外なくそれを共有していると思われます。本会の出発点からあった「自然葬」という用語の意味はまさに「自然に還す」という点にあったことが思い返されます。
 もしそうだとすれば、最終的な遺体処理が、結果としてどの程度、遺体を「自然に還す」方法になっているかということが問われなければなりません。これは言うなれば、《遺体処理法の自然還元度》です。これを《自然葬》判定にそなえた第一評価指標とします。  これに第二の評価指標をつけ加えたいと考えます。第二の評価指標は、「葬送の自由をすすめる会」にとっての《自然葬》判定のための評価指標です。この指標は「葬送の自由」というところに注目します。遺骨の専有的で排他的な埋蔵を規定する墓埋法からの自由、すなわち「葬送の自由」を追求します。それを究極まで追求する方向は、たとえば「一握り散骨」です。遺骨は山野や海・川に自分の手で自由に撒こう。それが趣旨です。この考えは、遺骨の専有的・排他的な埋蔵をきっぱりと否定するものです。
 しかしこの方法は当面は彼方の目標にはなっても、会員大多数の合意には至っていません。葬送文化の変革を推進する会ではあっても、世間とのあいだでおおきな軋轢が生じることを避けようという配慮も会としては働きます。
 たとえそうであっても、遺骨の専有的・排他的な埋蔵を否定する姿勢(態度)、ないし重視しないという姿勢(態度)は、会としては《自然葬》判定のための「第二評価指標」となり得るものですから、この指標を抜きに考えることはできません。
 そこで上にあげた、これら二種の評価指標を組み込み、一つの表を作成してみました。「表1 自然葬評価の比較」がそれです。
 [表1]の二列の評価欄に、私なりの評価を下して記号を記入してみました。その結果、評価指標①の「自然への還元度」に関して◎(還元度が大)の評価を与えたものが8項目に上ります。これだけ見れば、広い意味ではこれらはすべて《自然葬》です。次に評価指標②の「納骨施設の要求度」に関して×(要求度が小、または要求無し)の評価を与えたものが7項目に上ります。こちらの方は、遺骨の扱いに関して専有的・排他的でないことを示しています。例えば×の評価を記入した方法は、特定の個人や家族のために区画された空間を専有する墓石や墓域を求めないということです。したがって逆にこの列で◎がついていれば、該当の方法が専有的・排他的であるということを意味します。〇の評価を与えた場合は、専有の程度が緩い、または中程度という意味です。そのような意味で樹木葬には〇という評価を与えました。

 そこで上にあげた、これら二種の評価指標を組み込み、一つの表を作成してみました。「表1 自然葬評価の比較」がそれです。
 [表1]の二列の評価欄に、私なりの評価を下して記号を記入してみました。その結果、評価指標①の「自然への還元度」に関して◎(還元度が大)の評価を与えたものが8項目に上ります。これだけ見れば、広い意味ではこれらはすべて《自然葬》です。次に評価指標②の「納骨施設の要求度」に関して×(要求度が小、または要求無し)の評価を与えたものが7項目に上ります。こちらの方は、遺骨の扱いに関して専有的・排他的でないことを示しています。例えば×の評価を記入した方法は、特定の個人や家族のために区画された空間を専有する墓石や墓域を求めないということです。したがって逆にこの列で◎がついていれば、該当の方法が専有的・排他的であるということを意味します。〇の評価を与えた場合は、専有の程度が緩い、または中程度という意味です。そのような意味で樹木葬には〇という評価を与えました。

           表1   自然葬評価の比較

第一次処理 第二次処理 評価指標①
遺骨還元度
評価指標②
納骨施設の要求度
自然葬判定
(評価指標①をもとに)
自然葬判定
(評価指標②をもとに)
土葬 土葬A(純土葬) (自然葬)  
土葬B(甕棺葬)  
土葬C(墓石葬) 〇(X)  
風葬 風葬A(純風葬) (自然葬)  
風葬B(地上型甕棺葬)  
風葬C(地中型甕棺葬)  
鳥葬 鳥葬 (自然葬)  
水葬 水葬 (自然葬)  
火葬 散骨葬A(特定散骨葬) (自然葬) (自然葬) 
散骨葬B(非特定散骨葬) (自然葬) (自然葬) 
「ゼロ葬」 〇(X) (自然葬) (自然葬) 
樹木葬 (自然葬) (自然葬) 
墓石葬