自然葬と現代社会・論考など

自然葬に自由な発想を

「山折哲雄さんを囲む会」に63人
「一握り散骨」提案もとに真剣な論議


 本会顧問の前・国際日本文化研究センター所長・山折哲雄さんが朝日新聞の月刊誌「論座」で提唱した「一握り散骨」が波紋を広げた。海や山で自由に遺灰を撒く人たちが少なくないという時代になったのも事実だ。この機会に徹底的に話し合って自然葬を考えてみようと、「山折さんを囲む会」を企画した。4月21日、東京都文京区の日中友好会館に、各地の支部長や会員など63人が集まり、6時間近くにわたって白熱した議論・質疑を繰り広げました。会のこれからの運動を考える基礎となる論議になりました。

 安田会長が、次のようにあいさつして会は始まりました。

 山折さんが、朝日新聞の月刊誌「論座」昨年11月号の上田紀行・東工大助教授(文化人類学)との対談で「一握り散骨」を提案なさった。いろいろな意見が皆さんから出て議論が交わされることは、大変いいことと思います。結論をすぐにというのではなく、フランクに話し合うのが大事です。ちょっと前に厚労省の外郭団体の「生活と環境」という雑誌から原稿の注文がきた。「葬送の自由と自然葬」というテーマで、条件として、相方は厚労省が書くと。かねがねから厚労省の考え方を出してもらえる機会はないので「それはしめた」と引き受けました。しかし締め切り直前になって、厚労省は書かず、当然反対が分かっている全日本墓園協会の筆者に回していた。裏はよく分からないが議論を逃げるのはどうか。編集者から異例のおわびが来たが、取り上げてもらったら結構で、どっちに品格があるか読む人には分かるでしょう。全国の保健所には漏れなく渡っている雑誌だからいいPRになったと思います。先日、九州支部、熊本支部合同の研修会におじゃまして多様な議論が出ました。顔を突き合わせることは大事と痛感しました。今日も期待しています。

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人生無常が生であらわになる高齢化社会
死や葬送、不安と動揺の中にいる日本人

■山折哲雄・国際日本文化研究センター所長

 安田会長から一握り散骨の持論をだしにして語り合いたいからきてくれ、といわれて喜んで参上しました。76歳になり、そろそろ現実に考えなくてはならない状況です。

 一握り散骨は、今から18年前に言い出して、朝日新聞が「ひと」欄でとりあげてくださった。最近、これを言い出したころと随分違うなと感じるような反応があちこちにありました。近畿一円に宗教学科を持つ大学の9大学連合がある。そこの先生たちが、今年の総会で講演をしてほしいと言ってこられた。「論座」が直接の原因だが、出されたテーマは「死者を送る」だった。その時、先生たちの多くが自然葬とか散骨、一握り散骨に非常に深い関心を持ち始めていると痛感しました。先生方は宗教団に属し、表向き主張できない状況も一面にはあるが、本音では従来の葬儀のやり方では立ち行かなくなっていると思い始めている。20年間にここまで変わってきた。死と死者を送るという事柄について日本人の多くは不安と動揺の中に投げ出されているのではないか。そういうことを痛感しました。

・死者の顔をケータイで撮る若者

 最近、ちょっとショッキングなことを教えられた。遺体を納棺しますね。顔の部分に蓋が付いていて、参会者が蓋を開けて最後のお別れをする。その時、ある若者がそこに近づきケータイをかざして写真を撮った。そういうことがあの時もあった、この時もあったという話を聞かされた。驚きました。どういうつもりで死者の顔を、しかもケータイで撮ったのか。明らかに、葬儀とか死者を送るとか、死そのものに対する考え方が大きく変わりつつある、その現象の一端かなと思いました。しかし、そういう現象は至る所に起きているのではないかという反省がすぐやって来ました。

 葬儀のやり方が変わってきた。告別式といわずに密葬といったり、お別れ会といったり偲ぶ会といったり。何をやってもいいという状況です。そういう場で印象づけられるのは故人の遺影です。祭壇に当たる所に写真が飾られている。取り巻くように清楚な花束が積み上げられている。よく目を凝らすと、その写真のそばに位牌がある。あたかも写真の説明板のように見える。写真を中心に告別の式が行われる。葬儀が行われる。弔辞も写真に向かって読む。これは何だろうということを9大学連合の大会で申し上げた。曹洞宗の坊さんで大学の先生をしてこられた方がいっていました。葬儀を執行する時にいつも不思議に思うのは、写真が大きな役割を演じているように感じることだと。それとケータイで写真を撮ることと関係あるのかないのか。

 休みの日には、金閣寺、銀閣寺、清水寺にお参りします。息をのむ光景があります。ほとんどの大人たちが写真機をぶら下げ、ケータイで庭を写したりお互いに写し合ったりしている。風景なんか全然見ていない。仏像を拝む気配はない。写真を写し合う光景は、葬儀場での光景と重なるんです。

 20年ほど前、東京の多摩川の大氾濫で家が流されていく光景がテレビで映されました。朝日新聞に大きく出た記事ですが、流された家の主人が取る物も取りあえず逃げた時に、腕に持っていたのが先祖の位牌と写真だった。「天声人語」がこれは一体何だろう、と取り上げた。当時の宗教家や民俗学の研究者が注目しました。この日本人の先祖崇拝は一体どこから来たか、しばしば学界で問題にされた。20年たって、青年のケータイの所にまで来ている。

・人生50年、いまや80年に

 この2、30年で大きく変わったことのひとつは、「人生50年」の時代があっという間に「人生80年」の時代になったということだと思います。人生が50年の時代は非常に長かった。私は京都の下京区の綾小路通に住んでいます。近くに本能小学校跡というのがあります。信長が敦盛の段を舞って自刃した所です。敦盛の段の最初に出てくる言葉が「人間50年下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり」です。人生50年の時代は信長の時代から400年、500年と続いた。それはどういう時代か。人間、生きて働いて気付くと死がそこにやって来ていた。生きることと死ぬことが半分半分の比重で受けとめられた。そういう時代が戦後のわずか2、30年の間に人生80年、90年になってしまった。

 50年になって退職しても、その前に30年あるいはそれ以上の時間が横たわっている。どういう時代かというと、老いと病気、その果てに死がゆっくり近づく。最後に死の段階を迎えるまでにいろんな事件が起こり、困難が発生する。介護の問題が出てきて、臨終期、終末医療の問題がさらに面倒なものになる。最後を迎えるまでに疲労困憊してしまう。最後くらい簡単にやろうよということです。盛大な葬儀をしようという感覚は人生50年の時代のものだったのかなと改めて感じます。今日の日本社会の最大の問題はここにあると思います。 

 日本の社会は全体として欝の時代を迎えているのではないか。医者をはじめ各方面からいわれている。その根本原因は、50年時代の人生のモデルがあったのに、80年の時代のモデルがまだ出来ていない。青年が死者をケータイで撮るという行動を生み出している背景にあるのではないか。それでもなお、写真によって故人を偲ぶという行為は一体何なのか。この問いは残るのです。

 20年くらい前の話です。慶応義塾大学の精神科の先生をしていた小此木啓吾さんが、突然夫を自動車事故で失った婦人がどのように精神の回復をはかるか、日本人の場合とアメリカ人の場合を比較した。ショッキングな研究結果が出た。アメリカの場合は、夫の死後、婦人は泣き叫び、わめき、不安になり精神病になり、なかなか心的回復ができなかった。それに対して日本の場合は、比較的に冷静、平穏で、静かに喪失感から立ち直ることができるという内容だった。なぜそういう違いが出てくるのか。小此木さんとカリフォルニア大学のジョージ山田さんという共同研究者の研究成果になるが、日本人の場合は大体家庭に仏壇を飾っていて、位牌と写真を前にしながら亡き夫との心の対話を毎日やっていた。ところが、死者と向かい合うための装置が家庭にないアメリカ人の場合は、そういう機会はほとんどなく、精神状態の違いとなって現れてくるという。

 この研究には説得力があると思って読んだ記憶がある。その時に私は、仏壇の中に何が飾られているかには関心を持たなかった。しかし、大きな役割を果たしているのは写真に違いない。写真のそばに恐らく位牌がある。多摩川の洪水の時に家人がこの2つを持って逃げたということと結びついていると思う。  

・中世の能面に似る葬儀写真

 いったい、葬儀場に飾られる故人の写真は死者を送るための装置なのか、あるいは死んだ人をなんとかこの世に引き止めようとする仕掛けなのか。死者をして死者の国に至らしめる行為なのか、あるいは未練たらしく死んだ人をいつまでもこの世に引き止めたいという、生きている人間の欲望を象徴的に表す窓口なのか。

 若者たちが棺の窓に向けてケータイで写真を撮った行為を大人たちは非難できるのか。よくわからないのです。葬儀場に飾られる写真は故人の写真の中からふさわしいものとして選択されている。ふと私は、あの写真はどこか中世の能面の顔によく似ていると感じるようになった。能面は遠くから見ると死者の顔に限りなく近い。しかし、近づいて見ていくと途端に生々しい喜怒哀楽の表情を示す。不気味な中間表情をしている。中間表情的に写真を修正し、加工しているのが今日、葬儀場に飾られている故人の写真のような気がして来た。にこやかに笑いかけてくるような写真は選ばれてはいるが、破顔哄笑は避けられる。半身像でなく、首から下は削り取られている。家族の記念写真とも違う。限りなく死者に近いけれどもにこやかな笑いをたたえている。

 あれは能面だ。能のシテはほとんどが亡霊です。いろんな怨念とかこの世に思いを持って死んでいった。成仏していない霊の段階、亡霊の段階の人間のイメージが能面に象徴されている。進んだ近代社会を享受している日本人が、死の問題については中世的な伝統的な観念を心のどこかに宿し始めている。そんな風にも思えてくる。

 世阿弥の能には最初に諸国一見の僧といわれるのが出てくる。お坊さんの姿をした者が面をかぶらずに舞台の中央に出てきて名乗る。自分は乞食坊主、京都にきていろんな寺社をお参りする、金閣、銀閣、清水寺をお参りするようになったと名乗りをあげてからすっと手前右手の隅に座ってしまう。その後に亡霊のシテが出てきて、自分の栄華の時代を振り返っていかに自分が不幸な人生を歩んだかということをありったけくどくいう。じっと最後まで聞いているのがお坊さんです。口説きに口説いてだんだん気持ちが鎮められて亡霊は舞台を去る。今日におけるクライアントとカウンセラーの関係だ。諸国一見の僧がカウンセラーで、シテ、亡霊はクライアントだ。クライアントの悩み、苦しみをじっと聞き続けることで気持ちをなだめ、またあの世に戻っていく。そういう役割を果たしている、といったようなことを感じることもあるのです。

 あの写真の取り上げ方、写真に対するこだわり方というものは故人がまだ死に切れていない。成仏していない。亡霊の段階の故人をこの世に引きとどめているという感じがしました。葬儀場に飾られる写真というのは死者を送るためのものか、死者を蘇らせるためのものか、それが決まらない。われわれの中途半端な心理状態を映すものだ、ということが見えてくる。

・中世回帰を提言する「三無主義」

 そういうことを前提にして死者を送るためのやり方を改めて考えてみると、一握り散骨の問題に私としては繋がっていく。私は「三無主義」を唱えています。死んだ時は葬式をしない、墓をつくらない、遺骨を残さない。葬式はしない、これはいいですね。やってやれないことはない。墓をつくらない、これもそれほど問題はない。問題はやはり遺骨をどうするかです。火葬場で焼いたお骨の一部を持ち帰り生き残ったものがどうするのか。かみさんと10年話し合ったが、なかなか納得してくれない。

 遺灰にしなければ散骨できない。私は死んだ人の遺骨を金槌でたった1人で砕いて、形あるものは滅するという仏教の無常観をしみじみ経験できるのではないかと思っている。悲しみのますます深まっていく時間、悲哀のどん底の中で無常感が身に迫ってくる。それを初めて経験できる。そんな風に思っています。

 インドのガンジス河畔で死体焼却をしている現場をわれわれも見学しているが、ヒンズー教徒のほとんどは遺体を布で巻き油をぶっかけて火をつけて焼く。3時間から5時間、遺体が焼けただれて骨になっていくプロセスを遺族がじっと見詰めている。本当の野辺送りであり、死者の送り方の原形だと思います。現実は遺体を全部焼き切れるわけではない。1部の遺灰だけをもらってそれを流し大部分の遺骨は肉とともに残していく。それをついばんだりするのがカラスだったり犬だったりする。それをみんなが見ている。人生の無常というのはそういう時にひしひしと迫ってくる。死者を送る儀礼になっている。わが国の中世でも普遍的に見られた。餓鬼草紙とか地獄草紙に人間のさまざまな葬り方が描かれている。ゴザに遺体を放置し、それを犬がついばむ。塚を作って見せている場合もある。中世はさまざまな葬り方があった。私の三無主義は、遺骨を灰にする行動から始めるということで、まさに中世の時代に戻った方がいいのではないかという、そういう提言にもなるわけです。

 そのことは葬儀場における写真の飾り方が、中世の能舞台のシテの役割、諸国一見の僧の役割と重なって見えることともつながる。なぜ、そういう問題が否と応とにかかわらず突きつけられるのか、中世的な状況と限りなく結び付けられているのかを考えていくと、問題は江戸時代以降ずっと、つい最近まで続けられてきた葬式仏教の問題なのかもしれない。

 人間が死者を送るという問題が、その本質的なものを覆い隠す葬式という形で死そのもの、死体そのものと対面する機会を限りなく奪っていく。儀式、儀礼などを通して隠し続けてきたように見えてくる。そういう中でこの会が立ち上がってきた。その死の問題が今度は、近世以前の中世的な状況、人生無常が生の形であらわになる時代状況に近づいてきている。最大の原因が高齢化ということにあるかもしれない。働きに働き、定年を迎えた我々が、今度は、老と病と死に向かってさまざまなハードルを越えなくてはならない。それが今、死者をどう送るかということに迷いを生じさせるという背景ではないかという風に思うのです。

・「千の風になって」の面白さ

 最近、「千の風になって」という歌が爆発的な人気を得ています。われわれの運動とどうかかわるか。私は墓にはいませんよ、という呼びかけから始まる。風に乗って、いつでも四季を浮遊している。そして、いつでも皆さんの前に現れる。メッセージを届けることのできる世界にいますというメッセージ。生きている者と死んだ者との間を自然が媒体して、その自然の中で風が非常に大きな役割を果たしているところが非常に面白い現象に見えます。

 あの歌は、ますます大きな動きになっていくような気がします。なぜそう思うか。それは宮沢賢治の世界なのです。賢治は「千の風になって」で歌われているような世界に生きていた。私は岩手県の花巻の出身ですからことのほか賢治が大好きで、賢治的人生観と一握り散骨の提唱は深いところ関係があると思っていたのですが、「千の風になって」の流行でこの2つが結びつくという、一種の安堵の気持ちを持っています。

 賢治は、盛岡中学を出て、盛岡の高等農林を卒業してすぐ花巻に帰って農業中学の先生になる。26歳の時に、2歳年下の妹のとし子が死ぬ。とし子は東京の日本女子大の国文科を優秀な成績で出て、花巻女学校の先生をしていて結核になって教職を辞める。必死に看病したのが賢治です。賢治の童話世界や人間を理解する人はいなかったが、ただ1人の深い理解者がとし子でした。その晩一晩で賢治は傑作といわれる3つの詩編を書いた。翌年8月、とし子の魂を追悼するため、北海道から樺太にかけ旅をする。その成果が「オホーツク挽歌」という大きな詩集になっています。

 風が海岸を吹き付ける時にその中からとし子の声が聞こえてくる。風が吹くと、とし子の声が聞こえる。賢治の作品は必ず風が大きなキータームになっている。「風の又三郎」がそうです。風が吹いて物語が始まり風が吹いて物語が終わる。「注文の多い料理店」がそうです。山の中に入っていって料理店が現れる直前に冷たい風が吹いてくる。最後に、連れてきた犬が吠えて、冷たい風が吹いて物語が終わる。「銀河鉄道の夜」がそうです。あれも物語の初めと終わりに印象的な1行、2行の風が吹く場面が必ず付け加えられている。

 「千の風になって」のモチーフは、すでに賢治が繰り返し言い続けている。それをアメリカかどこか知りませんが、「千の風になって」という独特の詩の世界が地球上を巡らせたのがこの10年です。「私は墓にはおりません」というメッセージは強烈ですね。時代はそういう方に動き始めている。「葬送の自由をすすめる会」はその時代の波にようやく今、乗り始めている。だから、一握り散骨をと申し上げているわけじゃありません。これは私個人の提案でありまして、それを会の目安にしていただきたいなんて一度も申し上げたことはない。ただ、そういうものを話題にして話し合おうという、そういう動きがこういう形で実ったことは私としては非常にうれしいです。


 

運動として一般化は出来ない

                         ■ 塩崎義郎(北海道支部長)

 山折さんのお話のほとんどに共鳴します。ただ、一握り散骨は、私たちの運動として一般化されると、相当問題がありはしないかと思っています。人知れずにやられることは否定しない。一般的な運動として進めることはせっかくここまで積み上げてきた運動を壊してしまいかねない、という恐れを抱いています。

 運動が大きなトラブルもなくやってこれたのは、自然葬に際して自主ルールをつくるなど節度に注意し、周辺への配慮をしたからです。それなのに「ニセコ再生の森」では地元から反対の激しい声があがり、話し合い継続中は、実施を止めざるをえなくなっている。

 人知れずやられるならいいかもしれない。しかし、ニセコも目立たないようにしていたつもりでも、やがて知られるようになった。世論調査などでは、散骨は一般論として認めていいという人が7割などの多数になっています。しかし、自分や家族のこととして実際に考えている人はまだ少数派で、例えば隣の土地でやられたらどうかといった個別、具体論になると受け止め方が違ってくるようです。

 ニセコの町会議員や住民らは言います。「おれらも散骨を頭から否定しているわけではない。ただ、町に近いあそこで集中してやられるのは気持ち悪い」「ヨソから来て骨をまかれるのは承知できない」と強調します。総論では認めるが各論では反対の地元心理を見誤ると、とんだケガを負うことになるのではないでしょうか。

 ニセコの地元町とは話し合いを続け、規制条例づくりに動くのは食い止めています。新たに規制条例ができるとしたら、長沼町のように散骨そのものを否定するような愚かなものにはしない。散骨一般は原則として認めながら、墓地以上に厳しく地元の了解を条件とするものになるだろう。実際には拒否に会う公算が大きい。会は、あくまでも節度と周辺への配慮を持って実施してきたからこそ、1200回もの実績に胸を張れるのではないでしょうか。


骨は物質と考えればいい

                         ■井上良(神奈川県・大井町)

 私が散骨に興味をもったのは、ある人から宇宙法則を聞かせていただいたことが原因です。その人によると、原子と電子という科学的なことから人間というのは出来ている、と。宇宙エネルギーというのは減ることも増すこともない。変わることがない。それが人間に宿って初めて人間はできるんです、という。お釈迦様は科学者だったから、形あるものは消えてい、と。消えて自然界に還れるようにつくられているから、肉体に執着してはいけないと教えたのですという。そのことを大勢の方が知れば、人の骨をどこに捨てようとあまりこだわらなくなるのでは、と感じます。北海道の方のお話がありましたが、人間の骨を人間として考えるのではなく物質の基と考えればいい。会が理解されるようにすれば、海に流そうが、自分の土地に撒こうがトラブルは発生しないと私は思っています。


業者を会の方に取り込む必要も

                         ■蓑原善和(九州支部長)

 手元に「葬送の習慣を考える」という読売新聞の記事コピーを配りました。要約すると、葬送に対して尊重すべきこととして、1つはどのように送られるかについての故人の遺志であり、もう1つは死者を悼み生をいとおしむ遺族の心をあげている。現実的にはお墓そのものへの敬慕の念は捨てがたい、散骨は世間体の問題があるとし、結論としては、遺骨はすべてを墓にという習慣は再考する時期にきているのではなかろうかというのがこの記事です。編集委員という記者と話してこの程度の意識、お考えなのかとびっくりしたこともあった。

 もうひとつは4月6日付けの朝日新聞の「ひととき」です。80歳の方で7年前に43歳のお嬢さんを亡くし、友人から「千の風」という本を贈られて考え事を書かれている。葬式の後、娘の夫に同行して遺骨のひとかけらを阿蘇の大草原に散骨した。娘が元気だった頃からの夫婦の約束だったそうです、と。何年か前でしたらこういうことを新聞に書くこと事体が問題があるだろうと思います。

 それからもうひとつは、福岡の朝日新聞の記事で、「自分らしい葬送を考える」というフォーラムのことです。会費2千円で、こういう集まりには最近、多くの方が集まります。業者によっては思いもよらないことをする人もいます。私どもとしてはむしろ業者を会の方に取り込む形で対応を考えた方がいいのではないかと考えています。


人知れず撒きたい思いも課題

                         ■魚返正臣(前・熊本県支部事務局長)

 私は自然葬の活動に参加して立会いを7,8回やったが、一握り散骨という提案を受けてはっと気づいたものがあった。今やっているやり方でただ続けていいのか、もっといろいろ考えを巡らしてもいいのではないか。そういうことを感じました。もうひとつ、この会に加入していないにもかかわらず、故人の好きだった山に登ってそこに一握りの骨を埋めてきたり、撒いたり、海で個人的な自然葬をやったりしている人は少なからずいるのではないかと感じていた。新聞の投書を見て、やっぱりだと実感しました。

 自然葬にとって、この会が必要でない状態になることが一番理想的だ。いつでもだれでも自分の好きな時に、好きな所で散骨ができるようになる。そんな社会が理想的だが、現実は北海道の例もある。阿蘇外輪山の自然葬の場所、「再生の森」でも非常に慎重に、人に出会った時はどうするかということも皆で話し合いながら実はやっている。双眼鏡を持って行ったり、野鳥とか草花を見に来ているんだといいましょうね、とかやっている。そこまで考えなくとも、20分くらい歩く原野の道ですが、途中で季節の草花の根っこに少し散骨していくということがあってもいいかもしれないな、ということを感じました。

 会として今すぐ一握り散骨を進めることには無理があるけれども、自然葬の1つの方法としてできるかできないか話し合っていい。どこかに人知れず撒いていく、この思いを持っている人は結構多いという気がする。それを課題にしていく必要もあるのではないか。


一部を広瀬川にと考えてもいい

                         ■阿部みちよ(東北支部長)

 ニセコの問題があるので、東北でも今までは自然葬の山は亘理郡にあります、と言ってきたのを仙南あります、とぼかして言うようにしています。自然葬の申し込みの時に、よく登っていた宮城県と山形県の県境にある舟形山でしたいとか、広瀬川が好きだったから流したいといわれる人がいる。まだ国有林で自由に自然葬ができるというほど社会的な合意がなされていないのでちょっと無理ですよといって、会で所有している山になってしまう。

 ただ、最近、一握り散骨ということで少し変わってきました。こっちは全部のお骨を拾いますから粉骨の量がすごく多い。それをあちこちに一握り散骨というのは大変です。火葬場に聞いてみました。すると一部だけ拾わないというわけにはいかないが、分骨証明を出してもらえばできるという。そうなると、人知れず持っていって撒いたって大丈夫じゃないか、という気がしているのです。広瀬川だってちょっと流すくらいなら、ばんばんやっちゃうこともありじゃないかと思っているのです。ゲリラ的に事実を積み重ねていくことも考えに入れて、一部は舟形山とか広瀬川にしてもいいのではないかと考えています。

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――ここまでの話を踏まえて、助言者としてご感想を。

会の枠を超えた広がりが大切

                         ■中村生雄(学習院大学教授)

 私も会員として長く会にかかわってきた。今日はこれまで、支部ごとの幅の広い意見が出ていて、この会の自由さというものを感じた。山折さんが、10数年前の山田太一さん原作、八千草薫さん主演の「岸辺のアルバム」に言及された。家族のきずなを形として確認する不可欠のものが写真だった。多摩川が決壊して家が流されていく時に、写真を救い出したいという切実な気持ちが主題になっていた。お葬式での写真を重要視するという風潮は、亡くなった家族とのつながりも、生きている家族のつながりも写真を通してつなぎとめたいという気持ちが強くなっているような気がする。

 葬儀での写真は、かつての遺影とずいぶん違っていると思う。白黒写真からカラーになった。笑ったり横を見ていたりする日常スナップ的な写真を使うのにそんなに違和感がない。20年くらい前までは、ちょっとかしこまって、女性だと紋付、男性だと黒い式服の写真を使うべきという観念があったが、それが崩れて身近な記憶をお葬式の写真に使うことが一般的になっている。写真に何を期待するかという意味が随分変わってきている。

 「千の風になって」の話でも、死んだ人の気持というものが風に乗って残された人たちの住んでいる場所に自在にやってくる。そういうイメージだが、それには遺骸を納めるのではなく散骨がマッチすると思う。ただし、現在の散骨は、火葬後のお骨を砕いて海や山に撒くが、千の風になって死者が帰ってくるという感覚に対応するような葬り方は、風葬とか遺棄葬ではないか。火葬という人工的なプロセスを経ない、もっと原始的な葬法があの歌を好感をもって迎える人たちの心情の中にどこかある。

 熊本の方が言ってましたが、葬送の自由をすすめる会というものは、葬送の自由、つまり自然葬や散骨という風な葬り方が誰もが異論なく実行できるような社会ができれば消滅するわけです。会の目的は実は、会がなくなることを目的としているという風に思える。それがすごく大事なことと思う。山折提案を考える時に、現在の会にとってマイナスになるとか組織が危機に脅かされるという風な、組織維持ということが第一目標になってしまうのはよくないのではないか。この会の枠の中でどうするかということよりも、むしろ会の周辺、あるいは会とはほとんど関係ない外部の賛同者たちの中で、一握り散骨が当たり前になっていく。そんなことができれば一番望ましいことではないか。

 具体的には、最初は人知れずにやることが大事だと思う。宣言してやることではない。最初はそういう風にしてやるしかないと思う。それが朝日新聞の「ひととき」のように、段々と名前を示して一般市民の方がこういう風にしましたよ、と新聞に載って特に異論が出ない、こういうこともあるんだなと読者の方が受け入れていく。そんな状況が広まっていくことが大事だと思う。

 社会の古い観念を新しく作り変えていくためには先駆者が重要と思う。最近の向井亜紀さんの代理母のことですが、事実としてはかなりの人たちが行っている。向井さんという著名人が突出してやったが、日本の裁判所は最終的にだめだと言ってしまった。日本の法律制度が現実に追いついていない。制度が代理母によっても自分の子供を持ちたいという人たちの気持ちを抑えてしまっている。向井さんの例は、今回はストップしたけれども何らかの力になって動き出していくのだろうと思う。一握り散骨もそういう風にして、向井さんの役割をする人が必要なんじゃないか。それは山折さんにしてもらうしかない。

 撒く人、撒かれる人が新しいやり方について徹底的に話をして、自分たちの死後、どっちかが死んだ後の自分たちのいい繋がりとして残しておくためにはそういう方法しかないと、お互いに認め合っておく。そんなことも含めて山折さんには先駆者になってもらうというのが、取り敢えずのお願いです。

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若い世代にどう伝えるかが問題

                         ■山折

 こりゃ大変だ。皆様のご意見や中村さんのコメントを伺い、私は感動しています。その上で1つ申し上げたいことがあります。まず、一握り散骨の問題です。運動としてどういう形でかかわるかはちょっとわかりませんが、「論座」ではもう1つ重要なことを言っていた。それは「遺体はゴミだ」という思想です。ゴミはゴミでも最も美しいゴミ、と敢えて言った。その理由について慎重に申しませんでした。何故かと言うと遺体がゴミであれば、もう1つの大事な遺体があるはずだ。それは私にとっては魂なのです。

「論座」では慎重に魂、霊魂の問題は前面に出さないような形にしました。今日の私の1時間の話の中でも一言も申し上げませんでした。肉体と霊魂、魂と体という関係は重要な切っても切れない関係にあるとずっと思い続けてきたし、古代万葉人もこの2つの問題を重視していた。結局、万葉人の場合は、魂の行方こそ大事で、遺体はほとんど関心がない。つまり、霊魂と肉体の二元論で生命を考えていて、この考えはずっと日本人の人間そのもののDNAの中に畳み込まれていると私は考えている。だけど、なかなか表に出せない。出すと、葬送の自由をすすめる市民運動が何か宗教運動と間違えられやすい、という不安感や危惧が当初からあった。正面に出さなかったのは運動としては正しかったと私は思っています。

 ガンジス川の散骨儀礼に参加して感じたのは、ヒンズー教徒の死者の魂が昇天するという思想に支えられてあの光景ができあがっているということだ。われわれは明治以降、どういうわけか霊魂とか魂という問題を持ち出すと、それは宗教だ、何かいかがわしい、こういう反応をずっと持ち続けてきた。しかし、最近の若者たちの状況を見ていると、スピリチュアリズムに基づいた新興宗教まがいの運動が非常に活発になっている。葬送の自由という運動をこれからの若者に伝えていかなくてはならない。日本人の死生観を含めて、死生観にまつわるさまざまな価値観をどう伝えるか。われわれ自身を葬ってくれる世代へ自然葬とか散骨をどう説得的に説明していくか。私の勘では、もうスピリットとかスピリチュアリティという言葉を抜きにしてもあまり効果がないのではないか。それを出すと新宗教まがいの運動と間違えられる。このジレンマをどう乗り越えるか。

 この会の目的は会の存在理由がなくなることを最終目的とするということならば、若い世代にどう伝えていくかは非常に重要な問題になってきます。大学あたりで、極楽、天国といったことを説明する時に霊魂の問題で説明すると若者たちにすっと届く。近代的な解釈で説明するとほとんど眠り始める。ヤンガージェネレーションって本来そういう時代を生きている者たちだと改めて思う。そういう難しい問題が出てきているのでと思う。

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一握り散骨ならどこか墓か分からない

                         ■遠藤辰也(新潟県支部長)

 私が一握り散骨に賛同した一つの理由は、散骨した遺族たちが撒いた場所を墓と考える傾向があるからです。一握り散骨であちこちに山の仲間が山に撒いてくれる、海の仲間が海に撒いてくれる。そういう撒き方をすれば、どこが墓かわからないから墓にはならないわけです。賛成の理由のひとつはそういうことです。

 山折さんのさっきのお話の中で葬儀と写真の話が出ました。葬儀の写真があそこまで普及したのは靖国です。戦争になって写真が葬儀に使われるようになった。今もいろんな所に影響を及ぼしていると思う。

 塩崎さんが言っていたよその人の骨まで引き受けるのはいやだという住民感情。これはどうしようもないが、私は以前面白い経験をした。新潟県の小国町に創価学会が大きな墓苑をつくろうとして買収にかかった。その状況を取材して「再生」だけでなく地元の新聞にも書いた。主婦たちが立ちあがって母ちゃんパワーつぶした。なんでよその土地の人の墓を村内につくらないかんのか、と。散骨について、野山で撒くというのがこれから非常に困難になるのではないかと私は見ている。


母の遺灰を撒き続けている

                         ■平野文興(茨城県行方市)

 私は歯科技工士で僧侶の資格もあります。私も散骨を致しました。母親が84歳で亡くなって、この会にお世話になり、2年くらい前に千葉県の山中に散骨しました。一握り散骨ですが、山折さんのお話は、骨をどのように考えるかということだと拝聴しました。

 私は今も撒いています。そして母親の骨を持っています。技工士ですから母親の骨と歯をつくる材料と混ぜてガラスの中に封じ込めてあります。仏壇はないです。骨壷が家にあります。気がついた時にお線香をあげます。散骨で撒きましたが今もまだ骨がいっぱい残っています。四国遍路に行ったりしてお寺に撒いたり、道々撒いたり、撒き続けている。

 私もいずれ死にます。死ぬ時に末期の水に母親の骨も一緒に混ぜて飲みたい。私は母親の骨を食べてきました。せんべいみたいな感じですね。カリカリと。せんべいと同じかなと食ったら舌が紫色に腫れ上がりました。何かにたたられたかなと思ったのですが、考えたら骨というのはガラス状にキラキラしてきれいなのですね。結局ガラスを噛み砕いていたのです。

 ひっそりとそれぞれやったらいい。都会でできないかといったらそんなことはないと思う。残された側の心の問題だと思う。私は趣味としてパラグライダーをやっている。1500メートルくらい上がって空から母の骨を撒いた。そんなこともやっています。


交流会で必ず出る一握りの質問

                         ■末兼千鶴子(東海支部長)

 1月27日に支部の世話人が集まって一握り散骨について討論した。山折さん、中村さんの話、非常に興味深く聞かせていただいた。霊魂について私自身もわからない困ったことだと思っている。支部としては一握り散骨は、この時期尚早だということです。

 自然葬について家で話したとき、息子が家の庭に撒いていいよねとごく自然にいいました。私たち夫婦は、それは困ると話した。また、年2回の交流会で一握り散骨は必ず出ます。山が好きだから山にとか、あの土地に撒きたいのだがとか質問があります。会としては、節度ある方法でということで認められている。その点を考えてと答えている。しかし、これを思っている人は多いと思う。お話があったように、抵抗がなくなったら会はなくなっていいというところまで行かなくてはならない。


時代はやがて一握り散骨へ

                         ■柳博雄(関西支部代表)

 支部の世話人から必ず言ってくれと言われたのは、自然葬というのは儀式であり、儀式としての本質をどう考えるかの位置づけを伝えて欲しいといわれました。山折さんが触れられたスピリチュアルの問題で、会が行った自然葬で海に詳しい人が海図にあなたの骨はここで撒かれましたよ、と渡したら、千の風になって舞っているのに場所を指定して、海図を渡すとはなんだということで世話人同士が議論になりました。時代は完全に自然葬からやがて一握り散骨になって行くと思います。

 私ごとですが、妻は猫のえさの配達をここ7年間している。毎日3時間公園に配達をしている。私の妻が亡くなった時は家にいる野良猫の骨と一緒に(私が散骨するのであれば)散骨してあげたいなと思います。ただ、私の方が先に死んだ場合は彼女はどこかに捨ててしまうのじゃないか。骨は美しいゴミですから、それもまた結構かなと思います。


まだまだ啓蒙活動が必要です

                         ■竹内隆男(高知県支部長)

 土佐湾は人気があり自然葬の立会いをしております。明治維新の扉を叩いた土佐にしてはまだまだ遅れる点もありまして、まだまだ啓蒙活動も必要と痛感しています。


骨への執着を変えなければだめ

                         ■寺島幹一郎(東京都杉並区)

 58歳で団塊の世代です。戦争を知らない世代です。遺族の方や残された方々が遺骨に対して執着があるのを常々不思議に思っていた。なぜ大事にするのか。厚労省は今でも収集している。「論座」を読んでこれが原因かと分かりました。10世紀に空海さんがこの考えを持ち込んだということですね。それからお墓を石でつくるとか、遺骨を最後まで残すことが重要視されるようになったのだなと。葬送の自由を進めるためにも、約1000年続いた遺骨に対する執着を根本から変えないとだめではないか。明治維新でも戦後の米国占領でも変わらなかった。思想的革命が必要というのが議論を聞いた私の感想です。


自然の全部を再生する自然葬

                         ■中野喜美(埼玉県さいたま市)

 スピリットということが出ました。私は、人間を含めて動物、植物、海山の水すべてにあると思う。闇の中で自然のスピリットを感じる。地球全体のバランスを保っているものの尊厳がスピリット、と思う。自然葬は自然と共生する、人間だけでなく自然の全部を再生していくという。そういう地球を考えるなかで自然葬を頭に描いています。

 火葬の骨を墓地に入れたくない人のために便利なように、散骨しやすい処理を火葬場に求めていく運動も必要ではないか。また、土地は所有者のものだが、散骨が許容されていく中でランドエシックスということも考えていいと思う。


一握り散骨静かにやろう

                         ■高橋行(山梨県田冨町)

 私は甲府再生の森の持ち主です。山折さんの一握り散骨という考え方に一向に抵抗はない。お客さんは、「ここにもういっぺん来てお参りをしていいですか」とくるのです。「ここはお墓じゃございませんよ、お墓参りという考え方はちょっと問題なのですよ」という話しかしない。「でもお墓と思うなら思ってください」と言っています。儀式化するとおかしくなる。

 山折さんのおっしゃるように、本当に山に川に自分の骨を撒いてくださればいい。私のところに来て、「どのように撒くのですか」とご質問があった。「天に向かって撒くもよし、木の根っこに撒くもよし。この面積3反歩くらいのところ全部だから好きなように撒けばいいじゃないですか」と私は言い、みんなそんな風にします。自然葬は霊魂を引き出してしまうとむずかしくなる。霊魂の問題が入らない方がいい。一握り散骨が会として時期尚早とか今までの習慣をぶっこわせというのでなく、静かにやればいいのではないか。


水源地利用者は引っかかる

                         ■竹原文子(長野県塩尻市)

 長野県は80%が山で、3000メートル級の高山は国立公園。国有林は手入れされてなく普通の人は入っていけない。民有林、行政の森は人家に近く、水源地を抱えているところが多い。再生の森のようなものが表ざたになった場合、スムーズにいかないと考えます。会に入ったときは海しかなかった。海ならいいと思った。わからないようにやればいいという意見もわかるが、ひとつの山を水源地として利用しているものにとって、骨に害があるとかいう問題でなく引っかかるものがある。


夫を粉にしてすがすがしさ

                         ■原田美智子(埼玉県所沢市)

 2001年に夫を亡くしたが、夫を粉にすることができず1年間悩んだ。やっと決心がついて、私、娘夫婦、孫の7人でわたしなりの儀式で行った。庭の石をきれいに洗って、当日は厚手のじゅうたんの上に新しいシーツを置き、シーツの上に洗った石を置いて2人ずつ組んで。夫に申し訳ないと悩んだが、いざ始まるとそんな気持ちが飛んでしまい、本当にさわやかな、夫が望んでいたように散骨ができるようになって思いがけないような清々とした気持ちになりました。皆で笑いながら、夫のやさしかったことを思いながら、穏やかな気持ちでできました。なぜあんなに恐ろしいことと思っていたのかなと済んでから思いました。「再生」に、骨を砕くことがとてもこわいと書いている方もいたので話をさせていただいた。


灰がお墓に残っても役立たない

                         ■水谷喜多子(東京都世田谷区)

 私は角膜、腎臓の提供を40代の時に申し出ています。山折さんが骨はきれいなゴミとおっしゃった。私自身も灰になったものが墓の中で残っても役立たないからと、この会に入りました。


生者と死者のかかわり考えたい

                         ■大井利作(東京都杉並区)

 山折さんの三無主義に全く賛成です。家内ともども生まれ故郷の桜の木の下にそれぞれひと握りずつ撒いてもらうようにしています。ひそやかにそうしていく場合、会の運営、拡充が懸念される。また、生きているものと死んだものの関係をどういう風につけていくのかがこれからの問題とあるが、そこらに納得の行く考えが出来ればと思っている。


「千の風になって」を広げよう

                         ■田口宏昭(熊本県支部長)

 一握り散骨について前もって資料を読み、会場の皆さんのお話を拝聴した。会としてまとまってこれでいくというものではないと私は感じている。目指すところは一握り散骨だろうと感じているが、そっとやっていくという形がいいと思う。「千の風になって」の歌が普及して、多くの人がかなり感覚的に、自分が死んだらどうなるかイメージしていると思う。自然葬の運動をじわっと人々の間に広めていく上で「千の風になって」が普及しているのは非常に意味のあることだと思います。この歌をお借りしてあちこち、地域の合唱団で持ち歌にしていただく、そういうことも考えていいのではないか。じっくりと発酵していくのを待つしかない。その点で歌から入るというのはいいのではないかと感じています。


大きく発想を

                         ■安田睦彦(会長)

 田口さんの、「千の風になって」の利用、その過程で一握り散骨も熟成していくであろうというお話、賛成ですね。山折さんの一握り散骨を皆さんの意見を聞くチャンスと考えたのも、もう少し自由な発想がないだろうかと思うからです。「再生」64号に書いておきましたが、たとえば煙火芸術協会元顧問は花火でやったらどうかと。名古屋の南山大学の教授のE・H・ハイエクさんが、自分のアメリカの友人は花火に入れてドーンと打ち上げたと、「宗教者は自然葬をどう考えるか」という上智大学でのシンポジウムで発表され、会場の爆笑を誘った。皆笑ったが、ああ、面白かったという受け止め方を私は感じた。ちまちましたことを考えるのではなく、大きく発想を広げていきたいと私は考えているのです。

 九州でお話した時に、阿蘇の外輪山の周りだけでなく、ヘリコプターで火口の中に灰を撒いたらどうかと考えていいと。なぜそう考えたか。1988年に東京都のお墓対策審議会が自然葬は違法であると断定した。そのため、どれだけの方がお墓の中に無理やり眠らされてしまったか。その審議会の裏方の東京都の職員が散骨以外にお墓不足を解消できないから三原山の火口に撒くということなど、いろんなことを考えている。職員は考えているのに、審議会は違法と断定しているのです。もう少し我々もいろんなことを自由な発想の下に考えたらと申し上げたい。


真剣に考える寺の力も借りたい

                         ■本間捷悦(千葉県市川市)

 山折さんに所見と質問だけ。個人的に一握り散骨はあせらずちょっと時間をかけてステディにという感じを持ちました。ただ、自然葬も一握り散骨も放っておくと商業主義というか、そういうことを心配します。観光の寺とか葬儀専門の寺とか惰眠しているところがある中で真剣勝負で考えている人もいる。ここの力も借りなくてはいけないと思いました。その辺どんな風に考えておられるか伺いたい。霊魂の問題はこれからどう説明していかれるのか。


前後左右を見極めて進みましょう

                         ■山折

 一握り散骨は、慎重に時間をかけて、ケースバイケースに従ってやっていくのでいいのでは、私は私なりのやり方でやることになると思います。会の1つの方針にするなんて毛頭考えていませんし、そうしない方がいいのではないか。

 次に仏教界のことです。若い僧侶たちも考え始めている。もう墓地だけではやっていけない。従来の葬式仏教だけで教団が成り立っていかないという不安がある。待っていればそういう中から協力者が現れてくる。たとえばある寺の中に自然葬的なコーナーをつくるといった動きが出てくるかも知れない。若い住職たちの中に自然葬のようなことを、商業主義と結びつけてやる人出ないとは限りません。それも含めて変化が起きてくるのではないか。

 霊魂の問題は、宇宙全体が生命の核のようなものを前提にして成り立っている。人間と自然との共生という感覚を広めていく。時代はそうなっていくと思う。ですから、古い手垢で汚れた霊とか霊魂というレベルのスピリットの問題から変化し始めている。特に若い世代がそういうスピリット、スピリチュアリティの問題に関心を持っていることがひとつあるし、もうひとつは国連のWHOが、人間の健康とは何かと考える場合に、生理的健康、身体的健康のほかにスピリチュアリティという言葉を正式に定義の中に盛り込んだのですね。そのスピリットの問題も、人間と地球と共存していくために重要という認識がだんだん広まっている。この考え方はヨーロッパの近代諸国は受け入れる方向で動いているけれど。日本の医学会はネガティブという問題もある。

 そういう問題などを考えながら、前後左右を見極めながら、我々の運動を進めていったらいかがかと思います。

(2007.6)

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